結①
「大丈夫だった?」
廊下ですれ違った鳥羽は、バドミントンのシャトルを手でいじっていた。僕らは購買に向けて歩きがてら話をした。教室から離れると生徒の数が減る。かつーん、かつーん。冷たい廊下にスリッパの音が響く。
「平気さ。それにやっぱり来た。犯人に会った。逮捕されるよ」
「本当?」
階段を降りる。
「電車を降りたところで警察に捕まるのが見えた。市内だ」
駅名と場所を告げる。
「いつ?」
「日時まではわからない。でも夜だ」
「そっか……でも本当なら、良かった。もう、誰も犠牲にならないよね」
僕は頷いた。鳥羽は前を向いて歩いていたから、目を合わせなくても済んだ。
「どんな人だった?」
「ちょっと変わってたけど、僕には、普通の人に見えたよ」
乱暴な口調と活力を感じる容姿。去り際に語った発言を除けば、そのあたりを歩いている人と何も変わらない。
「警察には匿名で電話入れたよ。公衆電話なんて久しぶりに使った」
「なんで、そんなことするんだろうね。私には、本当に理解ができないよ」
「僕にもわからなかった。だけど、本当に、生まれついて人殺しを怖いと思えない人が、世の中には存在するんだよ」
何が違うのか僕にはわからない。けれど、生まれつきの犯罪者がこの世に存在する、という考え方は危ういということはなんとなくわかる。もしそれを認めてしまえば、一部の人間をあらかじめ、社会要請として淘汰することになりかねない。
一階まで降りると、鳥羽は購買と逆の方向に歩き始めた。
「購買はあっちだぞ」
「体育館の自販機を使いたいんだよ」
僕は鳥羽についていった。校舎から体育館に続く渡り廊下。そこにも一台自販機がある。
「購買の自販機には飲むヨーグルトが売っていないんだ」
鳥羽は自販機から商品を取り出して、また歩き出す。
「陸田くんも来週には退院できるんだってね」
「ああ、奇跡的な刺さり方だった、って本人は言ってた」
鳥羽は僕の顔をじっと見つめた。
「何か考えてる」
「なにも。やっと終わるな、って思ってただけ」
僕は表情を殺すのがちょっと上手になった。客商売をちょっとやった結果か。あの場所ではいろいろ得られたものがある。たい焼きの割引とか。
「あの時は悪かった。鳥羽。どうしても説明する時間がなかったんだ」
「私だって逆の立場だったらどうしていいかわからなかったよ。もしかしたら、私なら何もしなかったかもしれない」
鳥羽は体育館の扉に手をかけた。鍵は開いている。
「……何しにきたんだ」
「練習」
重い扉を開ける。体育館の片隅には、バドミントンのネットが張られている。
「今、一年生が体育でバドミントンやってるんだ。だからそのままにされてるんだよ」
「僕は犯人の話をしに来たんだ。犯人は捕まる。だから安心してくれ。じゃあ」
「ここまで来たんだ。付き合ってよ」
鳥羽は僕の肩を強く掴んだ。
「壁打ちにも飽きてきたとこだったんだ」
ラケットを借りてコートに立つ。鳥羽は早く始めたいと言わんばかりにそわそわしている。
「バドミントンなんて全然やったことない。相手になるかわかんないぞ」
「いいから」
ラケットを振る。鳥羽はシャトルを高く打ち上げた。目の前に迫るシャトルをなんとか打ち返す。
「いいじゃん」
鳥羽はなんだか楽しそうだった。軽く打ち返してくるのに、僕も応じる。キャッチボールをしている感覚だ。と、鳥羽は左腕を前に出して、ラケットを思い切り振りかぶった。僕が高く打ち上げたシャトルにじっと目を凝らす。
軽い衝撃。鳥羽はシャトルをラケットの真ん中で捉えた。加速したラケットが急な角度をつけて飛んでくる。反応できない。僕が手を伸ばした時にはもう、シャトルは地面を転がっていた。
「そっちもスマッシュ打ってよ。上げるからさ」
シャトルを拾ってラリーを再開する。数回の往復の後、鳥羽はシャトルを大きく打ち上げた。初速を得たラケットは頂点まで飛び上がって停止し、ゆっくりと落下に転じる。
腕を上げ、高い打点でシャトルを捉えた。思い切り力を籠めてラケットを振り下ろした。ラケットが空を切る。手元にはスマッシュの衝撃。気持ちのいいショットの音。ネットを超えたシャトルは、鳥羽の腕をすり抜けて床に落ちた。鳥羽はコート内に転がったシャトルを拾い上げた。顔を上げる。鳥羽はさっきよりずっと嬉しそうだった。
「滅茶苦茶いいじゃん。もう一回やってよ」
シャトルを上げる。ラリー、鳥羽が打ちやすく上げたシャトルをスマッシュで返す。鳥羽は拾い損ねた。
「やっぱり男子のほうが速いね。打点も高いし。最高だよ。バドミントン部入らない?」
「今さら?」
「何かを始めるのに遅いなんてないよ。それにうちの部はだいたいやる気ないし」
鳥羽は練習相手を探していたのだと思った。
「それでも、鳥羽は上手になれたんだな」
「ここじゃなかったらもっとうまくなってたかも、おっと」
わざとらしい声を上げて、鳥羽は慌てて手を伸ばす。ラリーが再開する。僕にもちょっとだけ、楽しむ余裕が出てきていた。
「もっと早く教えてほしかったな」
「何を?」
「未来予知のこと」
鳥羽はちょっと力を込めて打ち返してきた。なんとか拾う。
「なんで」
「バドミントンにハマるって知ってたら、もっと早く始められたのに」
「何かを始めるには遅いなんてないんだろ」
「あ」
僕の返球を、鳥羽は拾い損ねた。僕は思わず笑ってしまった。
「たった数分で矛盾すんなよ」
「違う、ひどいな。そういうこと言う人はモテないよ」
予冷が鳴った。僕らはラケットとシャトルを片付けて、慌てて教室に戻った。
それから、事件前の毎日が戻ってくるまでにさほど時間はかからなかった。予定通りに陸田は退院し、僕は宝くじを五万円に換金した。衝撃的な事件だったけれど、そのぴりぴりした空気はもとに戻りつつあった。犯人は捕まらないまま、一カ月が過ぎた。僕はまだ無事だった。変わったことと言えば、時々鳥羽と話をするようになったことくらいか。
「鳥羽と仲良くなったのか?」
陸田に指摘されて、僕は初めて自覚した。
「たまにバドミントンしてるよ」
「俺はずっと気に病んでたんだ。俺が邪魔をしてしまったんじゃないかって。入院中もそのことばっかりが気にかかって治療に専念できなかったくらいだ」
「それは悪かった」
僕は机の上に置いた牛乳の紙パックを手に取った。冷たくておいしい。もう七月だ。
「でも杞憂だったみたいだな。刺されたかいがあったってもんだ」
むせそうになった。
「馬鹿か」
「お前にだけは言われたくないねーよ」
陸田は元通りだ。文字通り平和でいつも通りの毎日が送れるようになるまでに、後一つだけ、越えなければならない壁がある。あと少し、あと一歩なのだ。
「でも、帰りに一緒になって結局何もしなかったのにはさすがの俺も幻滅したよ」
「余計なお世話だ」
「コイントスで負けたら告白、って言っただろ」
「僕が負けたら焼きそばパン、そっちが買ったら鳥羽に愛の告白? どう考えてもリスクが釣り合ってなかっただろ」
僕は鳥羽に嘘を吐いた。図書館に行ったらたまたま鳥羽がいた、なんて大嘘だ。僕も陸田も初めから知っていたのだ。
「いや、釣り合ってる」
「なんでだ」
「お前は幸運大魔神だからな。期待値を考えれば等価だ」
びっくりするくらい語呂の悪い異名に失笑しそうだ。
「ま、俺は玉砕するだろうと思ってたがね」
「じゃあなんでそそのかしたんだよ」
「お前が背中を押してもらいたがってるように見えたからさ」
陸田は笑っていなかった。どこか遠く、先を見通すような目つき。
「俺はお前がわざと負けたんじゃないかとさえ思ってるぜ」
「勝率二分の一だよ」
「どうだか」
陸田は不適な笑みを浮かべた。
「ま、どっちでもいいさ。それで、保留にしてる鳥羽の案件はどうするつもりなんだ」
僕はその問いかけに対する答えを準備できていなかった。
「全部終わったら、考えるよ」
「なんだよ、全部って」
「いろいろ」
僕の回答は何の答えにもなっていなかった。
「あ、陸田くん退院したんだって?」
水谷は、時々、別のクラスからこの教室まで遠征しに来ることがある。僕にはちょっと無理かなと思う。
「ああ、なんとか無事だ」
陸田は気丈にふるまっている。
「で、占い修行はもう再会しないの?」
水谷は僕にも水を向けてくる。
「休業してるんだ」
「一日しかやってないじゃん。根性ないなあ最近の若い者は」
「自分の実力を思い知ったんだ」
「あの商店街にずっといる私が言うけど」
水谷は言葉を区切った。
「かなり評判いい。もう一回来てほしい! っていう声がいくつもあがってる」
「いや、でも僕は」
「また来てよ。うちも友情割引でサービスするからさ」
「十円引きだろ」
「無料の上にみたらしと大判焼きでもつけようか」
ずいぶん気前のいいことを言う。
「俺が行こう」
と陸田が悪乗りする。いつも通りのあっけらかんとした態度、を、陸田はなんとか保とうとしていた。けれど、無理していることは僕にだってわかる。あの事件の後から、陸田はいつも怯えているように僕の目には見えた。学校からの帰り道、電車に乗っているとき、陸田はいつも背を丸めて、自分のお腹を守ろうとするような体勢を撮る。今まではなかったことだ。落ち着かない態度で左右を見回し、外を歩くときには心なしか早足になった。一つの事件は、その人の生活様式を一変させてしまう。
もし犯人が捕まれば、陸田は元に戻るだろうか。
「そんな真剣に悩むことじゃないだろ」
水谷と陸田は、僕の顔をじっと見つめていた。
「不安なのはわかるけどさ。待つしかないんだよ。事件のことは」
陸田が声を落とす。
「犯人はきっと捕まるよ」
「どうしたの? なんか変だよ」
「いつも通りだよ」
二人は不安な顔をしていた。きっと僕も、ずっと同じような表情をしていたんだと思う。




