プロローグ
僕の人生の最盛期は小学一年生の一学期だった。
その時の僕は、「じゃんけん大魔神」の異名を欲しいままにしていた。なぜかというと、読んで字のごとく、じゃんけんがもの凄く強かったからだ。給食の最後の一個を争う時、係決めで希望の役割が一緒になった時、掃除当番を一人に決めなければいけなくなった時、僕は必ず勝利した。そういった出来事が積み重なって、ある日、誰かがこんなことを言い出した。
「クラスの皆とやってよ」
僕は承諾した。その代わり、
「その前には、一回だけ握手をしよう」
相手は不思議がったが、「勝負だから」と一言告げると、握手に応じてくれた。
一回戦、相手はチョキを出すはずだった。だから僕はグーを出した。二回戦、相手はパーを出すと思ったから、チョキを出した……三回戦、四回戦、五回戦、六回戦、七回戦、八回戦、九回戦、十回戦――僕は負けなかった。じゃんけんで十回連続で勝つ確率は約六万分の一。それがいかに異常なことかを数値的に計算できるようになるためには、当時の僕は幼すぎた。自分が注目を浴びることが嬉しくてしかたがなかったのだ。
僕の机の周りには、知らないうちにギャラリーができていた。ぐるりをクラスメートに取り囲まれ、誰かが僕の勝利回数をカウントしていた。十一、十二、十三、十四――止まらない。周囲の歓声が大きくなる。僕は、この学校の全校生徒、全先生さえも、全員打倒してやろうと思ったくらいだ。
十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五――三十九。勝利を重ねていく中で、やがて
「ズルだよ」
その声は、氷のナイフみたいに僕の耳に突き刺さった。
誰の声かわからない。とたんに、周囲を取り巻くクラスメートたちが皆、敵に見え始めた。僕はこの瞬間になってようやく、自分のしていることが怖くなったのだ。
「最後私ね」
僕が鳥羽湊のことを強烈に意識し始めたのは、多分この瞬間からだと思う。
「鳥羽さん、最後は握手、無しにしよう」
「なんで?」
「いいから」
こちらに差し出された右手を僕は避けた。
「照れなくていいじゃん」
無理やり僕の手を握る。その時、脳裏に浮かんだ映像は、まるで石碑に深く刻まれた文章みたいに、僕の記憶に残っている。
僕は、まるで鳥羽の中に入り込んだかのように、鳥羽の目を通して僕自身を眺めていた。僕は自信無さげな表情をしていた。よく見ると、制服の第二ボタンをかけ忘れている。右腕を振り、じゃんけんの要領で手を出す。それに合わせて、主観的視点の中の鳥羽の手が、視界の外から伸びてくる。僕はチョキを出し、鳥羽をパーを出していた。
「二人ともーいいー? じゃあいくよー」
お願いしてもいないのに、掛け声役を買って出ていたのは陸田陸だった。
「さいしょはぐー、じゃんけん――」
鳥羽はパーを出すだろう。グーを出せば僕はじゃんけんに負けることができる。それは確信だった。握手をすればちょっと先に未来がわかる。いつのころからか、僕は無意識のうちにそう思うようになっていた。
「ポン」
僕はグーを出した。僕は敗北し――
わっ、と歓声が沸いた。
「負けちゃったかー」
鳥羽の出した手はパーではなかった。僕は何が起こっているのか理解できなかった。
こうして僕はじゃんけん全クラス抜きを制覇し、じゃんけん大魔神の名を手に入れた。その後、隣のクラスの生徒とやった一回戦目で、僕はわざと敗北した。ちりぢりになっていくクラスメートの中で、僕は鳥羽の姿を探した。僕は鳥羽の肩をつかんだ。頭の中に流れてくる映像を無視するのに、ちょっとだけ労力を要する。僕の態度はかなり乱暴だったと思う。
「何? どうしたの?」
「なんでチョキを出したの?」
僕の質問は、ほとんど叫ぶような調子だった。鳥羽はちょっとだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ここで負けちゃったらもったいないかなって、わざと負けたんだ」
「どうやって? もしかして鳥羽も――」
「私、動体視力いいんだよ」
鳥羽さんは言った。
「グーを出すってわかった。それに合わせてチョキを出した。私が勝つより、そっちが勝つほうが、盛り上がるじゃん。だって、全クラス抜きだよ? 伝説だよ? だからわざと負けたんだ。ごめんね。でもさ、もしかして」
鳥羽は一呼吸置いた。
「何か、ズルしてたの?」
まっすぐな目で見つめられた。僕は目をそらした。
「してないよ」
きっと鳥羽は僕の嘘を見抜いている。
「またやろうよ」
休み時間終わりのチャイムが鳴った。僕らは自分たちの席に戻り、午後の授業が始まった。授業中、僕はこの時に起こったことをずっと考えていた。小学生の僕の頭に、ぼんやりと浮かんだ考え。
未来の結果操作は完璧でない。五パーセントを切るくらいの確率で、自分の意図した結果が出ないこともあるのだ。
それ以来僕は、ふと見えてしまった未来の映像を意図的に無視して過ごすようになった。見えているものを無視して過ごすことは、それだけでもの凄く、疲れる。だから、僕は人に触ったり人から触られたりするのが凄く苦手になった。
最悪だったのは小学生の頃の修学旅行で手をつないで変なダンスをさせられた時だ。一週間後の授業風景やら(修学旅行の日から起算して一週間後の日付が書いてあったのだ)やら、卒業式の代表スピーチとか、中学校の入学式とか――思い出を作る非日常的な環境を楽しんでいるところに、夢から覚めた日常の風景を見せつけられる苦痛を考えてみてほしい。更に最悪だったのは、好きな女の子と手をつなぐ瞬間が回ってきた時だ。
僕とて、人並みの恋愛感情を持って生きてきたつもりだ。好きな子が隣に来ればちょっとは嬉しかったりする。
ダンスが終盤に迫ってきて、手と手が離れまた結ばれる。その子の手に触れたとたん、僕の頭の中の映画館には、僕の苦手だった男子生徒が現れた。どうやら、二人は隣同士並んでどこかを歩いているらしい。そして、その子はその男子の顔ばかり見ている。こうして僕は、自分の初恋が破れたことを、何をするでもなく悟った。これを悲劇と言わずして、何を悲劇と言うのだろう。
布越しの接触でも、ノイズがかかったテレビ画面みたいに、映像が映ったりする。時々、凄くスキンシップを取りたがる奴がいる。肩に手を置いてきたり、背中を叩いてきたりする。その時の僕は、あたかも世界で一番嫌いな相手に触れられてしまったかのような、本当に嫌そうな顔をするらしい。
「接触恐怖症なのか?」
と、陸田に言われて、僕は初めて気が付いた。
自分が外交的な性格でない。けれど、あまり大勢でわいわいする集団に馴染めないでいたのは、単に僕の社交上の性質のせいだけじゃないだろう。誰を恨むわけでもない。天高くにいるということになっている神様に何を言ったところで、持って生まれた性質は変わらないのだ。
小学校を卒業し、中学校を卒業し、そして高校に入学した。ちょっと先の未来のことがわかったからって、特別なことは何もない。僕は、そういう振る舞い方をうまく身に着けたのだ。




