一七〇一年三月十四日十時 江戸城将軍控の間
側用人柳沢出羽守吉保は、将軍が沐浴から上がり着装するのを待って報告した。
「さきほど松の廊下にて、浅野内匠頭殿が吉良上野介殿に切りつけるという刃傷沙汰が起こりました」
柳沢の報告を受け、将軍綱吉は烈火の如く怒り出した。
「浅野は何をやっているのか!勅答の儀の当日に、それも勅使御馳走役が自ら」
将軍の怒りは尤もである。朝廷に対して歴代将軍の中でも最も敬意を払っていると自負する綱吉である。であるからこそ、自らの生母桂昌院に従一位の位階を賜るべく、朝廷に働きかけてもいる。つまりは今年の勅使下向は、例年のそれに比べても大きな意味を持つ。さればこそ、朝賀使には高家筆頭の吉良を遣わし、勅使御馳走役、院使饗応役にはそれぞれ富藩として知られる赤穂浅野家と伊予伊達家を任命した。その勅使御馳走役が自ら朝賀使と刃傷沙汰を起こすとは。それも殿中で。綱吉自身が穢れを払うため沐浴している折、御馳走役と高家がその血で殿中を穢すとは。
「二人とも余自ら成敗してくれるわっ!」
将軍がいくらそのような言を挙げても、実際に将軍自ら大名旗本の首を撥ねるなど、出来るものでもない。まずは一旦感情を爆発させ、しかる後に収束させるのがよかろう。そう考える柳沢には、それよりも先に将軍に決してもらわねばならぬことが二つあった。
「上様、まずはご勘気はその辺りに、取り急ぎは二つほどご決断頂きたく」
柳沢のこういう冷静なところが綱吉としては気に入らない。余は怒っているのだ。その怒りを邪魔するのは無礼であろう。しかし、柳沢のこういう冷静さが綱吉を佐けている側面も、綱吉はよく理解している。世上側用人の評判は芳しくないことは綱吉自身も承知しているが、評判が芳しくないのは柳沢の才が長けていることの証でもあろう。家柄だけで能力がなくとも相応の地位に就くことの適う譜代の老中どもだけでは、世の流れの変化に対応することは適うまい。平安貴族達の世がそうであったように、世襲貴族は伝統と因習にのみ重きを置き、社会の変化という現実を排斥する傾向に陥りやすい。されど、側用人のような一代限りの能力主義による登用は、そのような弊害と無縁。譜代老中と側用人との均衡こそ、望ましい政体であろう。明敏な綱吉にはそのような計算がある。
「上様、まずは勅答の儀を白書院から黒書院に変更してもよろしいか、勅使殿、院使殿にお伺いをたてることにございます」
綱吉もすぐに諒解した。勅使、院使の休憩する秋之間から白書院に向かうには、刃傷沙汰のあった松の廊下を通らねばならぬ。それは流石に憚られるであろうゆえ、儀式の行われる場所を変更せねばなるまい。いやその前に、騒ぎの件は勅使、院使にも聞こえ及んでいよう。まずは誰か名代を遣わして、そのご機嫌伺いをせねばなるまい。
「さらば何人を以って勅使、院使のご機嫌を伺わせるか」
流石は上様、我が意を鋭敏に察してくれた。儀式の間を変更することは口実であり、重要なのは勅使、院使が此度の刃傷沙汰をどう捉えているのかを探ることである。もし勅使、院使が不快に感じているのであれば、そもそも儀式など執り行えるはずもない。いや、それを圧して強行することもできようが、それでは桂昌院様授位の大望を果たせまい。今必要なのは、勅使、院使の機嫌を取り持つことなのである。全く、柳沢としても綱吉に仕えることは本望であった。全てを口に出さなくとも互いに言外の意を察して最善の応えを返し合う。そのような主君に仕えることができるのは幸せなことであろう。無論、主君の方でもそのように感じてくれていると信じている柳沢である。
「高家の畠山民部大輔殿がこれに適任かと」
勅使、院使への連絡は高家に任せるにしかず。されど高家筆頭の吉良自身が事件の当事者である以上、余人を充てるより他に法はない。柳沢の上奏は妥当なところであり、綱吉の想定の範囲内にある。
「うむ、苦しうない。さらば早速手配せよ」
「御意。次に、勅使御馳走役の後任に誰を指名いたしましょうか」
勅使下向の儀式はあらかた終了している。とは言え、今から指南を受ける余裕は無い。
「戸田能登守ではどうじゃ」
下総佐倉五万五千石戸田能登守忠真。代々老中を輩出する譜代の家柄で、忠真自身も後年老中に就くことになる。勅使御馳走役は本来であれば五万石程度の外様大名が務めるのが慣わしであるが、この時は応急である。どの道混乱を招くのであれば、譜代の者が良いであろう。寺社奉行等を歴任し厳格公正として名高い忠真であれば、きっと混乱を乗り越えられよう。それは柳沢の推すところでもあったが、流石に側用人の口から老中の家柄の者に勅使御馳走役を指名するのは憚られる。そうと察した綱吉は、敢えて柳沢に下問することなく指名した。
「御意にございます。それでは早速そのように差配いたします」
綱吉はいつもの冷静で的確な判断を下せる状態に戻ったようである。いや、無論まだ怒りは解けてはいないであろうが、すくなくとも冷静に計算できる状態には戻った。
「とりあえず、浅野の身柄は田村右京に預けおけ。処分はおって沙汰する。ところで、その際吉良は応戦したのか?」
将軍自ら怒りに任せて即決する、などという愚行はまずは回避された。いずれ死を賜る以外の途はないのであるが、まずは形の上だけでも老中に諮るのが望ましかろう。問題はむしろ吉良の扱いである。綱吉もそこが分かるからこそ、吉良の対応を確認した。
「いえ、吉良殿にあってはただ浅野殿に切られるがままにて、こちらから切り返すこともなかったとの由にございまする」
「うむ、それは殊勝な心掛けである。屋敷に戻って十分に養生し、傷が治ればまた出仕するよう伝えよ」
綱吉の言は、吉良の罪を問わないことを意味する。そしてそれは、柳沢の意とするところでもあった。
「よいか吉保……一人浅野のみ刑に処し吉良を裁かぬでは喧嘩両成敗の法に適わぬ、と異議を申す者もおろうが……」
無論柳沢は、綱吉が最後まで言わずともその意を諒解している。
「上様、これは喧嘩には御座なく。勅答の儀に備え上様自ら斎戒沐浴している折に、その殿中を穢した罪をこそ問われる筋のもの。また、その罪を正しく罰するを以って、勅使院使への上様の意を陳べるが理なれば、上様のご採決はまこと理に適ったもの。仮にそのような異議を申し立てる者あらば、畏れながら某がその蒙を啓いてご覧に入れましょう」
綱吉は柳沢が正しく自身の意を理解していることに満足し軽く頷く。
「さらば上様のご寛恕を以ちましてもうひとつ……武士の情けと申しますゆえ、浅野殿への仕置きは切腹仰せつかるという形にしとう存じます」
「うむ、さもなくば、浅野の縁者や家臣どもも黙ってはおられまいな。余とてこれ以上の混乱を望むものには非ざれば、左様仕置きせい」
「それでは早速そのように差配いたします」
そう言って退出する柳沢を見やって、綱吉は気持ちを入れ替える。まずは勅答の儀を滞りなく進めねばなるまい。