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[完結(全47話)]神君の遺言 ~忠臣蔵異伝:幕閣から見た赤穂事件~  作者: 勅使河原 俊盛
第二章 松の廊下
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一七〇一年三月十四日十時 江戸城蘇鉄の間

 「役目につき、浅野内匠頭長矩に問う」

 幕府目付多門伝八郎が上座につき、麻裃に着替えた長矩への詮議が始まった。

 「殿中にて抜刀するはご法度。その方とて、知らぬことではあるまい」

 「はっ」

 「特に本日は勅答の儀これあり、その方には勅使御馳走役としての役目もあろう。そのお役目を捨て、殿中にて刃傷に及ぶとあらば言語道断」

 「まことに仰せの通りに存じます」

 長矩としては、平伏してそのように答えるしかあるまい。事実、その通りであり、非は全て長矩自身にある。

 「それを、何ゆえその方は吉良殿に切りつけるような真似を致した」

 「まことに某の意趣にて、場所柄もわきまえずご公儀にもご迷惑をお掛け申した」

 「もう一度申す。存念あらば、この場にて申し開きいたせ」

 先に梶川に対して長矩を解き放つように申し付けた際と同様、どこか多門は長矩に好意的であった。無論、多門の耳にも日頃の吉良の風聞は届いている。高家の家柄を良いことに、たかが四千五百石の旗本にしか過ぎぬ身で諸大名を馬鹿にし、あまつさえ高額な賄賂を要求するという。世人の日頃の鬱積を晴らすかのような長矩の所業に、多少なりとも好意を感じていることを自分自身否めない多門である。

 「吉良殿に切りつける際、積年の恨みと申しておったと聞くがまことであるか。まことにあらば、積年の恨みとはどのような意であるか。包み隠さず申せ」

 殿中で刃傷に及んだ以上、例えどのような理由があろうとも、長矩は死を免れられまい。しかし、この取調べで長矩の口から吉良の悪逆非道を聞けば、それを世上に訴えることはできる。例え死を賜ったとしても、長矩の名誉だけは回復できるかもしれぬ。少なからず長矩に同情的な多門は、できれば長矩の口から刃傷に及んだ理由、それも、世間が納得できる理由を明かして欲しいと願った。しかし長矩は、まるでここで口を噤むことこそが忠義であろうと考えているように見えるほど、頑なに黙秘を貫いた。

 「全く某の私情にあって、ご公儀の預かり知らぬところ。いかようなお仕置きも覚悟の上なれば、よろしくお取り計らいのほど」

 ご公儀の預かり知らぬところ、とは妙な言い方ではある。無論、公儀が預かり知らぬからこそ、自分が取り調べをしているのである。それとも、公儀から何か密命でも受けているのであろうか。いや例えそうであったとしても、よもや勅答の儀当日に高家筆頭を暗殺するような指図は流石の公儀でもするまい。むしろ、やはり乱心しているのではないか。

 「その方、乱心しているのであろう」

 長矩は端然としている。その凛とした佇まいに関が原以前よりの譜代並みを誇る大名家の高貴を見る思いがした。少なくとも今の長矩には乱心している様子は見受けられない。多門は少し膝をにじらせ、声の調子を落として語りかける。

 「浅野殿、刃傷に至ったのは、ご乱心が原因ではありますまいか」

 乱心ということになれば、長矩個人の名誉は回復しがたい。しかしながら、お家のことを考えるとどうであろう。勅答の儀当日、勅使御馳走役自ら抜刀し高家筆頭に切り付けたとなれば、幕府や朝廷に対する反逆と取られても仕方なかろう。当然お家はお取り潰し。されど、乱心であったとなればどうであろう。事は重大ではある。かつてであれば、やはり大名の乱心もお家お取り潰しの対象であった。しかし天下泰平からまもなく百年。大名個人が乱心して処罰されるのは免れないが、お家までお取り潰しになる例は少なくなった。長矩には舎弟の大学長広がいる。むしろ、乱心に託けて大学殿のお取立てを懇願しているというなぞかけであろうか。

 「浅野殿はご乱心であろう?」

 「お目付多門様のご好意、心より謝意を申し上げる。されど某の業は乱心のそれに非ず。只々、某の私情によるものにて」

 長矩も多門の意を察したからこそ、礼を述べた。しかし、それによって乱心とされる訳にはいかない。乱心でなければ、必ずや喧嘩両成敗の理により、吉良にも報いがあろう。一度は反逆の汚名を被ったとしても、関が原以前よりの譜代並の家柄として、吉良家をこのままのさばらせる訳にはいくまい。吉良は長矩の徳川に対する忠義を疑った。長矩は、浅野家こそ徳川への忠義に厚い家柄であると、せめて後世の誰かに理解して欲しかった。無論、その思いのままを口の端に乗せることはできぬ。

 「浅野殿、ご乱心ということであらば……」

 長矩は自分が乱心を示唆した意を分かっていないのであろうか。多門は敢えて口を重ねる。乱心ということならば、お家お取り潰しを免れることも叶いましょう。最後の言葉を直接音にすることは、流石に目付役として憚られた。しかし長矩には乱心であったと言って欲しかった。言ってくれれば、目付役としてこのことを老中に報告し、お家安泰を働きかけるつもりであった。そのような決意を眼差しに載せ、多門は長矩を見やる。長矩は少しだけ浮かべた涼しげな笑みを以ってそれに応え、言葉としてはこうとだけ答えた。

 「まこと、某の私情によりて吉良に切り付け申したが、武運これなく残念至極な次第、この上はどのようなお仕置きを下されてもご公儀を恨むに非ず。某の存念ご公儀にお聞き届け頂くよう、多門様にはよろしくお願い申し上げ奉る」

 こうして取調べは終わった。長矩は最期までその理由を語らなかった。結果として、吉良に切り付けたその刹那に長矩を動かしたものの正体は、後世までの語り草となる。

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