一七〇一年三月十四日九時半 江戸城松の廊下
「積年の恨み覚えたるか!」
吉良上野介義央は大奥留守居役梶川与惣兵衛と立ち話をしていた。一昨日の勅使伝達、昨日の勅使饗応と無事に終わり、この日は将軍綱吉が勅使にお答え申し上げる、いわゆる勅答の儀が執り行われる予定であった。既に勅使、院使は江戸城に到着し、秋之間で休憩している。上様も今頃は沐浴も済ませ、小半時もすれば儀式が始まり、そして滞りなく終わることであろう。あとは明日の増上寺、寛永寺への参詣を以って勅使、院使の下向は恙無きを得よう。ふとそんなことが頭を過ぎっていた時、与惣兵衛が挨拶にやってきた。
「吉良様、昨日、一昨日のご差配、まことにお見事でございました。本日は某が大奥からの御遣いを相勤めますゆえ、何卒よろしくご指導のほどお願い申し上げる」
「うむ、相分かった。よろしく頼む」
一両日の気疲れもあったのか、儀式が始まるまでの一瞬、吉良の感覚は鈍っている。続けて報告する梶川の言を余所に、吉良は別のことを思い出していた。
「本日の大奥からの御遣いは、予定より少し早まるかと。勅使御馳走役浅野様、院使饗応役伊達様には既に某より左様お伝えしておりますれば……」
浅野と伊達の名をぼんやりとした頭で聞き取った吉良には、儀式の予定ではなく、両名の高家筆頭への贈り物の相違が想起された。浅野の小僧奴はついに儂に贈り物を寄越してこなんだ。赤穂の豊かな財源ゆえ勅使の饗応に大過は無かったとは言え、所詮は田舎大名、礼を知らぬことこの上ない。塩田のこともそうである。かつて製塩法を教授してやった恩義も忘れたばかりか、此度は上様直々に赤穂塩の江戸での販売を許されるという。
「赤穂の田舎物は礼儀も知らぬと見える」
つい本音が口を突いて出る。そして、一度口から発された言葉は己が耳から舞い戻り、その語気を自己増幅して次の言葉を産む。想定外の返答に戸惑う梶川をよそに吉良は声を挙げた。
「何ゆえ上様はかような礼儀知らずに勅使御馳走役を賜ったのか」
その言葉は、そこから十間と離れていない場所に座して控えていた長矩の耳にも入る。
何ゆえ上様が某に勅使御馳走役を賜ったか。我が家は関が原以前からの譜代並みであるからゆえ。二代将軍台徳院様のご寛恕により高家として許された吉良家とは、そもそも徳川に対する忠義心が違う。
長矩心中の自答を否定するが如く、吉良が続ける。
「浅野のような田舎者に、徳川の忠臣たるの資格なし」
「東照大権現もご照覧あれ!!」
気がついた時には遅かった。長矩は脇差を抜き、こちらに背を向けている吉良に上段から切りつけていた。しかし、太刀筋が浅く、長矩の切り付けた痕は掠り傷のようなものであった。
「ぎゃぁっ!」
突然の痛みに驚いた吉良がこちらを振り返りつつ誰何する。そこへ二の太刀を浴びせる長矩。
ガチン!
今度は吉良の被っていた烏帽子に切っ先が当たり、これも浅い傷を負わせるに留まった。無論、長矩にも武芸の心得はある。太刀を抜いていれば、この六十を過ぎた老人を一刀のもとに切り伏せていたことであろう。しかしこの時は殿中のことでもあり、長矩は太刀を佩いていなかった。咄嗟に脇差を抜いたはものの、結果として太刀筋が浅くなった。そもそも脇差は上段から切りつけるような代物ではない。あるいはもしこの時、体ごと相手に押し付けるように脇差を突いていれば、これは致命傷を与えるに十分であったろう。しかし長矩は、一瞬冷静さを失っていた。失っていたがゆえに殿中で刃傷沙汰を起こしたとも言えるし、失っていたがゆえに脇差で斬撃したとも言えよう。
一方の吉良は慌てふためき、長矩に背を向けて逃げ出そうとする。吉良の返り血に興奮し、かつ仕留め損なった事実に激高する長矩は、我を忘れて更に一太刀を逃げる吉良の背に浴びせようとするが空振りに終わる。しかしながら一方の吉良も足がもつれてその場に崩れ落ちる。留めとばかりに長矩が脇差を振り上げ、今まさに足元にうずくまる吉良に突き立てようとするところ……
「浅野殿、殿中でごさる」
長矩は後ろから羽交い絞めにされ、その身の自由を失った。
「えぇい、離せ。儂は吉良を……」
「浅野殿、殿中でござる。どうかお控えくだされ」
吉良と談話していた梶川は、長矩が突然脇差を抜き放ち、何ごとか叫びながら吉良に切りつけるのを見た。それは彼が事前に想像していた光景からは遠く離れたものであったがゆえに、何か現世の出来事ではない、浄瑠璃や歌舞伎の舞台の所作のように与惣兵衛には思われた。尤もそれは一瞬のことであり、鮮血の鉄のような鈍い匂いが与惣兵衛を幻から呼び起こす。長矩が留めの一撃を突きたてようと振りかぶったその刹那、与惣兵衛は後ろから抱きついて長矩を押し留めた。
「武士の情けでごさる。どうかお離しくだされ。殿中とは申せ積年の恨み、今こそ晴らさずば武士の名折れ。東照大権現様にも顔向けできねば、どうかお離し頂きたい」
「浅野殿、お気を確かに。殿中にござりますれば、刀を抜くなどご法度。お控え頂けねば御身を離せませぬが、どうかご無礼を許されよ」
身分が下の梶川はその口調こそ丁寧だが、長矩を締め付ける力はいや増した。そこへ、騒ぎを聞きつけたお小姓衆がかけつけ、長矩を押さえつける。まもなく、長矩は抱え込まれたまま松の廊下から連れ出され、一方の吉良も抱きかかえられて医師の間に連れられる。こうして長矩は吉良を仕留める機を逸した。
この上の抵抗は無用と悟ったものか。梶川は長矩の体から力が抜けるのを感じた。
「吉良殿を打ち損じたのは無念とは申せ、かくなる上はこれ以上の刃傷には及ばぬゆえ、どうかお手をお離しあれ」
長矩にこれ以上抵抗する様子が見られないとは言え、殿中で刃傷に及ぶとは常ではない。またいつ乱心するかも分からず、梶川としても手を緩めてよいものか判じかねた。そこへ梶川の内心を見抜いたかのように長矩が続ける。
「某は乱心などしておらぬ。某も小なりとはいえ赤穂五万石の城主。殿中であるにも関わらず抜刀いたしたのは某の罪とは申せ、これ以上このようにお留めおかれるのは武家の作法にも適いますまい。これ以上の手向かいは致さぬ。まして上様や徳川家に対して意趣もござらねば、どうぞお手をお離しくだされ」
そこへ駆けつけた目付の多門伝八郎が助け舟を出した。
「梶川殿。浅野殿の身柄は我ら目付がお預かりするゆえ、もう手を離されよ。お役目、ご苦労であった。浅野殿もよろしいな」