一七〇三年一月晦日二十一時 江戸細川邸
夜半、気配を感じた大石が声をかける。
「歌留か、久しいな」
若い女性のややくぐもった声が天井裏から返ってくる。
「大石様、今宵は今生の暇乞いに参りました」
歌留の意を察した大石は、気安い口調で告げる。
「どのみち、儂の命あるも永くはあるまい。さらばお可留、遠慮は要らぬゆえ近う」
歌留は天井板をずらすと、音も無く室内に降り立ち、大石の側に侍る。
「こうしていると、お可留と過ごした山科の夜を思い出すことよ」
大石が山科に隠棲していた時分に歌留は、大石の妾に成り済まして、自由にその屋敷を出入りしていたものである。
「大石様にご奉公する体にて、歌留も働きやすうございました」
「うむ、歌留の働き……儂もずいぶんと助けられたがその実、多くはご公儀の差し金であろう。無論、我が邸に参ったのも」
「もう……大石様にはお人の悪い……」
わざと拗ねて見せて答えをはぐらかす歌留である。万一大石に仇討ちの意なくば己の性技を以って大石を篭絡せよ、との長の命により大石の邸に妾として入ったのは事実である。しかし、大石と触れ合うことで交わされた情まで作り物であったとは想いたくない可留でもある。しばらくの静寂の後、大石がぽつりと呟いた。
「神君のご遺言……赤穂浅野に累代伝わる秘事……冥土の土産に、今宵はひとつお可留に物語でもしてやろう」
大石は目を軽く瞑り、伊賀者の歌留にではなく、京二条の町屋の娘お可留に語りかけるような口調で喋り始めた。
「神君が死出の床に就かれていた折、赤穂浅野家、当時は笠間浅野家であったが、当主の長重様は二代将軍秀忠公、台徳院様のご名代として神君家康公のお見舞いに参上された」
歌留はただ黙って大石の話に耳を傾ける。
「その折長重様は、図らずも神君ご病臥の室前にて、神君と本多正純様との謀を聞いてしまわれたのだ。すなわち、吉良を討て、それが神君のご遺言である、と」
「このことは、赤穂浅野家累代の秘事とされ、浅野家当主ならびに筆頭家老の者にのみ伝えられ口外を固く戒められた……」
歌留には全く想像もつかない事実が、大石の口から告げられてゆく。
「この段、かねてより知らせ申すべく候へども、今日やむを得ざることに候ゆえ、知らせ申さず候、不審に存ずべく候」
「殿様が田村右京様宅にて発せられたというこの言葉、お可留は何と解した?」
突然の話題の転調に目を見拡げた歌留は当意即答を得ることができず、くノ一にはあらざることではあるが、真意を率直に口にしてしまう。あるいはこれは歌留自信が大石に、心安いものを感じてしまっているからであろうか。
「可留は……恐れながら冷光院様の御意を解すること叶わず、ただご無念の一存からのみ発されたお言葉と承っておりました」
「さもあらん……かねてより知らせ申すべくとはすなわち、かねてよりいつか吉良を討ち果たさんとお考えであったとの意。恐らく殿様は、江戸にある折には常にその機を窺っておいでであったのであろう」
大石の言に半分は賛同しつつ、なお残りの半分では納得のいかない歌留は、大石の考えを聞いてみる。
「されど、なにゆえ殿中で、それも勅答の儀の直前にそのような……」
「さぁ、儂にもそこは分からぬが……そう、何か赤穂浅野家の徳川将軍家に対する忠心を疑われるような言葉を上野介殿が発されたとか……殿様には直情的なところがあありであったゆえ、あるいは何気ない上野介殿の口ぶりに、それも、神君から滅せよと遺言されている家の者から発された言葉に、関が原以前よりの譜代並みとして家柄を誇られていた殿様には、何かお気に障ることでもあったのやもしれぬ……されど、今となっては申しても詮無きこと」
歌留の問いはそのまま大石の問いでもあり、大石自身確信が持てずにいる。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせむ」
「冷光院様の辞世……お美しくもはかなく、そして切ない……」
「まこと、殿様は死出の途にありながら、後ろ髪を引かれる想いであられたに相違あるまい。御自ら上野介殿に切付けなされながらこれを倒す能わず、浅野家は取り潰されながらも吉良家を滅する能わず」
「春の名残とは、ただ桜花の散るを指すだけでななく……」
歌留にも少しづつ分かりかけてきた。
「左様……徳川開幕より百年。徳川体制のその春の季節にあっては多くのものが芽吹いた。そして次の百年、徳川は盛夏を迎えることとなろう。されど、春に芽生くは梅や桜のみにあらず。時には雑草も芽吹かば、夏にはこれが栄えもしよう。吉良家は徳川にとってまさしく雑草。さらば、夏にならぬ前にこれを間引かねば、秋に実りを得る能わざるであろう」
歌留はいよいよ理解した。長矩の口上と辞世は、ただ単に心境を陳べたものではなく、長矩が大石に遺し託した、浅野家秘事の遂行指令そのものであったことを。そしてその秘密指令は余人にはそれと知られず、ただ大石のみが正確に亡き主君の遺志を理解していたということを。
「それでは大石様ははじめから……」
歌留の問いに大石は微笑を以って応える。その微笑の爽やかさにお可留としては嬉しさを覚えながら、歌留としては不満のひとつも言いたくなる。
「さらば始めからそのように教えて頂ければよろしいのに、大石様にはお人の悪い。お蔭で可留は色々と苦心致しました」
最後には多少拗ねた口ぶりの歌留である。大石は最初から仇討ちしか考えていなかった。殉死、歎願、お家再興、全ては本懐を遂げるために巧妙に練り上げられた構想であったにすぎぬということを、歌留は今になって思い至る。歌留は大石をその諜報によって操縦していたつもりであったがその実、大石の方が歌留を、そして公儀を操縦していたのではあるまいか。そして……可留の方こそ、大石の毒に篭絡されてしまったのではあるまいか。それでも良いと想う歌留の甘え混じりの苦情に苦笑を覚えながら、大石が抗弁する。
「今宵は散々な言われようじゃな……されどそうは申すが、儂がその意を明かせなかったには理由が二つある。ひとつはご公儀の意向が読めぬこと。ご公儀にその意なくば、儂の構想など画餅にもなりはすまいよ」
その通りである。公儀の側に長矩刃傷を奇貨として吉良を潰すの意向なければ、ただ大石が仇討ちの意を示すことは逆に、公儀に取り締まられる口実を与えるだけになろう。
「それに、そもそも殿様ですら口外できなかった秘事を、なにゆえ陪臣たる儂が伊賀者に陳べること適おうか」
ここで歌留はもうひとつの疑念を問う。
「そこは大石様の申される通りですが、さらばなにゆえ、冷光院様はそのことをご詮議の際にお申し出になられなかったのか」
歌留は長矩のことを、浅野様という苗字でもなく内匠頭様という官職でもなく、ただその法名である冷光院様と呼ぶ。そんな歌留の惻隠の情に大石は少なからず愛しさを覚えながら、一方で大石自身は殿様と呼び続ける。まるで、もうすぐ泉下にて再び膝下できることを心待ちにするかのように。
「神君の遺言から八十五年。浅野家は長重様から数えて殿様で四代目。されど、ご老中には何代目になられるか」
大石の指摘に歌留も頷く。確かにこの八十五年の間に就任した老中は三十名以上を数える。果たして神君の遺言は無事正しく伝わっていることか。
「まして殿様ご詮議は目付多門伝八郎様がお役目。多門様は殿様に大変同情的であったとは申せ、その秘をご存じあるまい。殿様がその秘を明かさば多門様は役目柄これを開陳せざるを得ず、そはすなわち、神君の遺言という秘事を明るみにさらけ出すこと。いかなご公儀にあっても吉良を潰すは神君のご遺言とは公にはできまい。とは申せ多門様ひとりの秘とするは、謹厳な多門様のよく致されるところではあるまい」
この指摘にも首肯せざるを得ない。目付多門伝八郎はこの秘事を知らぬであろうし、仮にそのような秘事を知らされれば、多門には迷惑この上ない。その辺りを酌量した長矩が、敢えて多門には真相を伝えなかった、とも考えることができる。
「殿様ご詮議を老中首座土屋相模守様がなさっていれば、あるいは……」
そうは思う大石であるが、大名の監視は目付役の仕事であって老中の仕事ではない。それこそ、今更論っても仕方ないことであろう。
「いずれにせよ事は成り、あとは結果を待つのみ。ご公儀は吉良家お取り潰しをお決めになったのであろう?」
大石が最も肝心のことを聞き出す。そして歌留は、まさにそれを告げるがために、今宵ここにいる。
「お察しの通り。吉良佐兵衛義周殿はご領地没収の上、信州高島藩諏訪安芸守様お預けとのお沙汰」
ほぼ丸二年の間、歌留は大石の様々な表情を見てきた。そして今宵、その最も満足げな笑みに会うことができた。本当はもっと早く、もっと違う場所で、この笑みを見たかったのではあるまいか。そう自問し俯く歌留に、大石が声をかける。
「さらば歌留よ、儂の最期の頼みを聞いてはもらえぬか」
「何なりと……」
お可留との物語は終わり、歌留への最後の依頼が告げられる。歌留は改めて低頭し、大石から与えられる始めての願いを待つ。
「さらば江戸市中に噂を流してもらいたい。此度の挙は徳川への反意によるものに非ず、亡き殿様が仇を討たんが為の義挙である、と。そして、赤穂浅野家はまこと義士を養った名家である、と。ご公儀の記録としてではなく、市井の民の記憶として、後世に永く語り継がれんよう……これぞ儂のまことの遺言である」
他にも、大石の遺言とされている書や言は後世に複数散見されるが、あるいはこの歌留に与えた依頼が最も大石の心中を率直に表していたかもしれぬ。この遺言は秘事であり決して公にされて良い類のものではないが、それだけに歌留には嬉しかった。歌留にだけ遺される大石の真意。
「大石様……歌留は歌留の持つ全ての技能を捧げて、必ずや大石様のご遺言をお果たしますゆえ、どうぞ後顧の憂いなきよう……」
最後の方は声に涙の成分が多少混じっていたようではあったが、それに気づかぬ振りをして大石が告げる。
「礼を申す。さらば達者でな、かる」
最後は歌留に向けたものか、お可留に向けたのか、発した本人にも定かではない。しかしながら歌留にはその入り混ざった気分がとても好ましく思え、今生の別れを済ませたとは思えない軽やかさで、元来た天井裏に帰っていった。