一七〇二年十二月十五日十三時 江戸城老中御用部屋
「いやこの間の各々方のお働き、全く見事の一言につき、某心から感服仕る」
老中首座土屋相模守が、他の四人の老中と一々笑顔を交わしながら頷く。
「まずは功の第一は小笠原殿にあろう。何と申しても吉良上野介殿在宅の折を能く赤穂旧士どもに伝え、更には当夜の茶会を長引かせ吉良殿を自邸に留め申された」
吉良は当日の茶会の閉会後、夜は上杉家屋敷を訪ねてここに宿泊する予定であった。それを察知した小笠原が敢えて長居したために、結果として主人の吉良は上杉屋敷に赴くことができなかった。法家の阿部豊後守ですら、小笠原の機転と度胸を賞する所以であろう。
「尤も、最期の段にあっては稲葉殿の剛毅が柳沢殿の出鼻く挫くこと、全く愉快であった」
此度の策の発案者である秋元但馬守が稲葉を持ち上げる。月番老中の稲葉は大目付仙石伯耆守の報告を受けるや否や、柳沢が登城するよりも前に全ての事後処理に手をつけた。すなわち、早速に大目付仙石伯耆守宅に四十六士を預け、浅野長矩の時のような、柳沢の即決により即日切腹仰せつかるような事態をまずは回避した。これで主導権は老中評定が握ることとなろう。上様の重用を背景とした柳沢の専横ぶりに並みの幕臣であれば躊躇しこれに忖度するところであろうが、かつて一度は苦汁を啜った稲葉ならではの胆力である。尚この時既に、仙石からは中途で一人脱盟した足軽某は不問に処したとの報告があり、公儀は以降四十六士として取り扱うこととしている。これは仙石伯耆守のあるいは目溢しか。
「いや何の、軽殿こそ早速に市井の者どもに噂を流し……こうまで町民どもが騒ぐようでは、いかな柳沢殿でも無碍には出来まい」
昨夜吉良邸に忍び込み赤穂四十六士の討ち入りの様子をつぶさに観察した軽は、吉良邸を発つや早速に方々に触れ回っていた。四十六士の処分にあっては、これら世論の働きかけるところも大であろう。
「恐れ入ります。されど、大石様以下の無事本懐を遂げられたのは、まこと秋元様の事前策が効いたがゆえ」
赤穂旧士の討ち入りに際して最終的に懸念されたのは、上杉からの援軍である。いかに準備を整えてから襲撃するとは言え、たかだか五十名の小兵である。急を聞いた上杉から援兵が駆けつければ、多勢に無勢ともなろう。それを留めたのは秋元である。秋元には、その経済政策で右腕と頼りにしている名家老高山繁文がいたが、上杉藩で同じく経済官僚として辣腕を振るっていた色部又四郎とは、その領国経営の面で何かと情報交換を行っていた。秋元はその高山をして事前に色部に忠告させていたのである。曰く、吉良家に万一ある際これを援け様などとは考えるべからず、と。恐らく上杉家現当主綱憲は実父を救うべく援兵を出すよう命じよう。色部も本来であれば大石が同じ悩みに沈んだと同様、殿様とお家とどちらにより筋を通すべきかという難題に直面したことであったろう。しかしこの際の色部には、悩むところなど実はひとつもなかった。主君は所詮養子として上杉家に入ったに過ぎず、色部からすればこれが適当な君主でなければ廃嫡するまでのことである。その意味では、色部を説得できれば上杉を抑えることは容易かったと言え、その色部は、老中からの内々の忠告を無碍にするほど阿呆ではなかった。
いずれにせよ、五人の老中がそれぞれの得意とする部分で力を発揮したがゆえの、此度の成功である。
「とは申せ、某もこれでようやく弟に顔向けできるというものよ」
そう言った稲葉には神君の遺言の他にもう一つ、吉良を討たねばならぬ理由があった。
「三河西尾藩藩主土井利意殿のことであろう?」
阿部が相槌を打つ。
「左様、阿部殿にはご存じの通り、吉良領と西尾藩は矢作川を境に接しておる」
いきさつはこうである。吉良領は矢作川の西岸、西尾藩は東岸に存在する。この川は古来氾濫することが多く、その氾濫は領地を肥沃にする面もあるが、一方では領民の生活を破壊もする。群雄割拠の時代よりこの方、武田信玄の例を引くまでもなく河川改修と灌漑土木は領地経営の基本となっていた。吉良上野介義央はその領地経営にあっては名君とも謳われており、後世吉良堤と呼ばれる護岸工事をしてよく領民の生活基盤を保護していたのである。
「されど、吉良側のみ堤を築けばどうなるか……」
以前であれば氾濫した矢作川は、吉良領と西尾藩領双方に被害を与えていた。しかし西岸の吉良領だけに堤を築けば、東岸の被害は従来に倍する。
「しかし、吉良殿も届けは出したのであろう」
阿部の言う通り、従って河川を境に接している場合の河川改修は予め公儀に届出て、その許可を得ることになっている。しかしこの時は多少事情が異なった。西尾藩の先代土井利長は大老まで勤めた土井利勝の三男であったがこれに子が無く、稲葉の弟が養子に入っていた。その利意が家督を継いだ直後の、いわば家内が混乱している最中での届出である。後からそれと知った利意は当然の抗議を行ったが後の祭りであった。無言の稲葉に代わって阿部が続ける。
「利意殿も抗議は行っておられるとはいえ、高家相手では分も悪いということか。その意味では稲葉殿の申される通り、公儀を憚らぬ不逞の者に公儀の意を見せ付けるにも、此度は良い機であったということか。全く、法に従い世を治めることの、何と難しいことよ」
法家の阿部には珍しく、超法規的な処置を是とする発言である。いや、法は厳正に、ただしその運用においては臨機応変に、との思想はあるいは、法家の始祖である商鞅の轍から学んだものか。上野介の討ち死にを以って吉良家を断絶の理由とするのは、確かに考えてみれば法の解釈が過ぎるとも言える。
「いずれにせよ吉良への沙汰であるが、これは当初の目論見通りということでご異存はあるまいか」
老中首座土屋が話を本題に返す。前当主吉良義央は既に死亡、現当主義周は負傷とのことである。此度の仕方宜しからずとして、領地没収他家お預けとするのはいわば規定路線。ここに神君の遺言は、八十五年の歳月をかけてそのひとつを完遂する。しばしの感慨が四人の老中を包むところへ、土屋が次の難題を投げかける。
「一方の赤穂四十六士は如何様に沙汰すべきか」
みな意いは同様である。一連の騒動の、その最初の事案にあって彼ら老中は、浅野長矩を犠牲に供した。神君の遺言という名の祭壇に。既に祭事は大慶成った以上、その家臣達までをも捧げることは、彼らには躊躇われた。せめて彼らは助命してやりたいが……
「徒党を致し騒ぎを起こすはご法度。この法は如何とも仕難く……」
目を瞑ったままの阿部が声を絞り出す。法家の阿部にしても、この決断は苦しい。口ではそのように言いながらも、一方では無罪にする方便を必死に計算している。
「確か軽殿の報告によらば、君父の讐ともに天を戴くべからざるの義黙止難く、とか」
君辱められれば臣死す、と言う。これを忠と呼ばずして、何を忠とするのか。文武両道の小笠原が問えば自然と重みが生じる。小笠原の言に刮目した阿部が再び言を挙げる。
「此度の挙、ご法度にある文武忠孝を励し礼儀正しくあるべし、に適う。赤穂旧士はすなわち赤穂義士である……」
そう言った阿部自身、その判断の正しさに全幅の自信がおけずにいる。みなの逡巡を見た土屋は、一旦議論を引き取ることとした。
「この件は大層判断に難く、いずれ儒者学者にもその説を問う必要があろう。さらば今はさる大名家に預け置くこととし、追って沙汰すべしと考えるが、各々方にご異存は?」
他の四人の老中はいずれも無言で賛意を表し、ここに大石以下四十六士のお預け処分が決定された。流石に四十六人を一家に預けるのは命じられた方でも難儀であろうゆえ、細川越中守以下四藩の大名に分けてお預けとなる。翌十五日、赤穂四十六士は仙石伯耆守宅から四家に護送され、この日が彼らの今生の別れの日となった。
また、既に大石らの討ち入りの後江戸中に噂を撒いていた軽であるが、この日より更に力を入れて風説の流布に努めた。曰く、赤穂藩士はまことの義士、これを活かさずして何をか忠孝と謂わんや。この世論の高まりは、後の将軍綱吉の決裁にまで微妙な影響を与えることとなるであろう。