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[完結(全47話)]神君の遺言 ~忠臣蔵異伝:幕閣から見た赤穂事件~  作者: 勅使河原 俊盛
第一章 勅旨御馳走役
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一七〇一年二月二十六日二十時 江戸赤穂藩上屋敷

 「そうか、吉良殿が江戸にお戻りになられたか」

 報告を受けた浅野内匠頭長矩は、江戸家老安井彦右衛門に重ねて聞く。

 「それでは一度、吉良殿にご挨拶申し上げねばなるまいが、いつが良いであろうか」

 「三日後には総登城を控えておりますゆえ、その前にご挨拶申し上げねばなりますまい。吉良様には本日上方よりお戻りとの由にあらば、明日にはまだ長旅のお疲れも残っておりましょう。まずは明日某がお伺いし、殿が明後日吉良様に伺候する由、吉良家家老松原殿にお伝えしましょう」

 安井の回答は至極尤もなところであり、長矩としても異論はない。総登城日とは、江戸滞在の全ての大名、旗本が揃って登城し上様に拝謁する日。恐らく吉良上野介にも城内で会うことになろう。その前に此度の役目拝領について高家筆頭に挨拶を済ませておかねば、後々気まずいことになるであろう。

 「うむ、そのようなところであろうな。委細頼む」

 「承知。ところで、殿がご挨拶に伺うに際し、どのような金品をお持ちになられるか」

 安井の当然の質問ではあったが、一瞬長矩は即答に窮した。

 「……」

 「高家筆頭たる吉良様に勅使御馳走役の指図を頂くための授業料として、まずは、いかほどのご用意を致しましょうか」

 「無論儂も分かっておる。されどそれは全て無事終わってから、礼物を贈るということでよかろう。何もご指導頂かぬ前より金品を贈るというのは、吉良殿に対しても却って失礼にあたるであろう」

 この年三十五になる長矩は、よく言えば実直、悪く言えば融通の利かない生真面目な青年であった。小藩とは言え大名の家に生まれ、関が原以前よりの譜代並みの家柄に育った長矩は、曲がったことのできない性格の主であった。

 「金品を贈り好意を買うなど、町民どもの振る舞い。そのような真似をしては、却って高家筆頭のお家柄を愚弄することにもなろう」

 長矩とて、赤穂の塩を江戸で販売しようと考える程度に、現実的な経済感覚は備えている。しかし、武士には武士の建前がある。建前あればこそ統治の正当性が生じるものを、町民と同じ行いをして何をか誇らんものがあろうか。ましてや大名ともなれば、浮世の現実を米蔵の奥底に隠し込んででも、霞を喰うが如き建前を通さねばならぬこともある。

 「されど、伊達家は既に相当の金品を吉良様に贈られた、とか」

 安井は安井なりに、主と藩のことを考えている。主の清廉は美徳ではあるが、時として敢えて醜穢を友とすることを強要するのが渡世の常である。美徳が占める領域を侵さぬ程度の折り合いを、主には許容してもらいたかった。何より安井としては、我が主君が伊達左京亮より劣るなどと吉良家に見られるのが耐えられなかった。全くこれは安井の忠心ゆえの諫言である。

 しかし、伊達家を引き合いに出したのは、この際は逆効果であった。

 「伊達殿には此度のお役目は初めてのこと。さらば多少のことは仕方あるまい。されど儂は二度目であるぞ。既に一度はご教授頂いた。その際の書付も残ってあらば、何も一からご教授頂く必要もあるまい。吉良殿も既にご高齢の身とて、儂と左京殿、両名にこと細かくご教示されるのは、さぞお骨折りであろう。儂には十八年前との差分のみご教示頂ければそれで結構。とは言え、あまり教授せぬのに金品ばかり受け取るというのでは、高家筆頭の名が泣くであろう」

 この時代、幕府とは言え儀式の記録を正式に残す機能を有してはいない。毎年の恒例行事である勅使下向の応接など、本来であれば幕府が記録なり手引書なりを残すべき類のものであろう。しかしながら、それらの機能を一手に握っているからこそ、高家という家柄が存続し得ている、とも言える。いわば、無駄が雇用を生んでいる典型であろうか。ところが長矩はその記録を自家保存してしまった。これは長矩の合理性が取らせた行動であるが、時として合理は慣習を打ち壊し、社会に変革を迫る。

 「左様ではありますが……」

 「さればこそよ。お役目が無事終わったところで、礼物として金品をお贈りするのが礼にも適っておろう。その節には、金品を惜しまぬこととせよ」

 まこと、この時の長矩の真情に嘘偽りはなかった。お役目が無事に終われば、それに見合う礼をするのは当然のことであろう。幸いなことに赤穂の財政は今のところ潤っているため、充分な礼を贈ること叶おう。また、近い将来江戸で塩を販売すること叶わば、更に潤うことは必定。その際には、上野介への謝礼をはずむことを惜しむほど、長矩は吝嗇ではない。その清廉な性格から、自分一人、赤穂一藩だけ利あれば良いなどという利己的な考えは、長矩にはとうてい浮かばなかった。

 「しかし、何も持参せぬというのもまた理に適わぬこと」

 安井の言うことも正論であると考えた長矩は、しばしの黙考のあと結論を告げる。

 「安井の申す通りである。さらば……」

 長矩の示した指示は、形式上は全く礼に適った完璧な誂えではあった。しかしそれは、吉良が望み、伊達が贈り、安井が勧めた実利からは、江戸と京を往復するよりも遠い地平の彼方にあるものであった。この決定的な差が後に、決定的な事件の遠因となる。

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