一七〇二年四月十五日十四時 山科大石邸
山科に隠棲する大石の屋敷に、大叔父の進藤源四郎が一人の若い女性を連れて訪ねてきた。大叔父とは言え家中では大石の方が身分が上であり平素は「進藤殿」「ご家老」と呼ぶ仲ではあるが、この時は違った。
「内蔵助殿、本日は親類縁者を代表して内蔵助殿に申し上げたき儀あり罷り越した」
改まって問いかけられれば叔父甥の関係として年長者に相応の礼を示す大石である。
「叔父上には改まって何を」
「されば内蔵助殿におかれては、近頃は伏見橦木町あたりの置屋に毎夜の如く通われているとか」
進藤が大石の遊女屋通いを批難する。曰く、男として多少の遊びは甲斐性とは言え、遊蕩も度を越せばよろしくない。元は高禄とは言え只今は無役なれば、湯水の如く散財すべきではない。筆頭家老の度を越す遊蕩は赤穂浅野家も外聞が悪い。云々……
「お家お取り潰し以来の内蔵助殿のご苦労、察するに余りある。されど筆頭家老の位にある者のあまりに遊蕩が過ぐれば、大学様お取立てにも累を及ぼすべし。さらば親類縁者としてこれを諫言すべく」
大石の遊蕩は江戸急進派に言わせれば公儀や吉良家の間者の目を大石の真意から逸らす絶好の擬装となろうが、上方穏健派から見れば大学長広様お取立てを妨げる最悪の支障となる。そもそも進藤ら穏健派はお家再興再仕官に自らの価値観を合致させており、彼らにとっては江戸急進派の主張する吉良討ち入りなど迷惑千万この上ない。お家再興と仇討ち、恐らくは両立することの叶わぬ相対する価値観を、今のところは何とか丸め込んで緩やかに一体化させているのが現状ではあるが、いずれこの連帯はどこかで崩壊せざるを得ないことを、その結節点の中心にいる大石自身が最もよく理解している。そのひとつの表れが大石の遊蕩への諫言であり、このところ何度か繰り返されてきた問答である。無論大石としては仇討ちを擬装すべく、などとは口が裂けても言えず、進藤らに返す言葉は常に煮え切らないものにならざるを得ない。
「いや全く叔父上の申される通りとは存ずるが、とは申せ大学様お取立てに良き思案のあるでもなく、ましてや江戸の堀部らから再三に渡る書状の数々……どうにもこう胃の腑のあたりが……」
そう言って顔を顰めつつしきりに鳩尾のあたりをさする真似をしてみせる。問答の度に大石が見せる仕草に呆れ顔の進藤ではあるが、今日の進藤はその対策を用意してきていた。ここぞとばかりに膝を詰める。
「さもあろう、全く内蔵助殿にもご苦労が耐えぬこと。それも奥方をご実家にお返しになってからは、より一層のことであろう」
大石はこの四月、十五年連れ添った妻りくを離別しその実家に帰していた。想わぬ進藤の言い様に乗り、ここぞとばかりに弁明を陳べる大石である。
「左様、近頃はこれこの通り何かと不如意でもあり、やむ無く……」
これこそがこの日の進藤の策である。さらばとばかりに畳み掛ける。
「そうであろう。そこで儂からの勧めであるが、側を置かれては如何?」
そう言って進藤は後ろを振り向き、進藤の蔭で平伏している女性を案内する。若い女性を妾として側におけば、大石の遊蕩も納まることであろう。
「この女子は京二条の町屋の娘で、名を……」
進藤の紹介に続けて、どこかで聞いたことのある若い女性の軽やかな声が名を告げる。
「可留とお呼びください」
その声は、かつて聞いた同じ句を大石の頭の中に想起させる。あの時は確か……そう、赤穂の邸の庭隅で……あの節はもう少しくぐもった声をしていたようだが……
「お可留、顔を挙げよ」
大石はまだ少女のような幼さが残る歌留の顔をはじめて見た。これまでの大石は庭隅に蹲るか、あるいは天井裏に忍ぶ歌留としか会ったことがなかったが、このような若き女子であったか……様々な想いが脳裏を駆け巡ると同時に、既に大石の頭の中では各種の計算が始まっている。多様な方程式に多数の変数を設定して出す解は多岐に渡り、そのどれもが同じ確からしさを主張するが、どれも正解とは断定し難い。正解はひとつとは限らず、解の数すら所与ではない。いやむしろこれは、解を出した瞬間に方程式自身が書き換わり、先の解が次の式を構築するような無限に続く再帰計算……そんな一瞬の思考を無論、進藤は知る由もない。進藤にはただ、大石がお可留を気に入ったらしいということだけは判別できた。しばしの間を措いて大石が言う。
「折角の叔父上の勧めとあらば是非もなく。さらばお可留よ、今宵から早速我が屋敷に留まる可し」
進藤がほっとした表情を見せ、可留が平伏する。やがて夕刻になり、伏見通いはほどほどに、などと言いながら進藤が大石邸を辞した。
「さて歌留よ、なにゆえ我が邸に……」
などとは聞くまでもあるまい。いずれ伊賀の長あるいは公儀の命であろう。大石との連絡を密にするため、あるいは……
「可留が褥で大石様を指嗾する、などと大石様にはお考えですか」
こうまで直接的に歌留を送り込んでくるとは、歌留に命じた者の考えは奈辺にあるのか。大石は直答を避ける。
「くノ一の筒には毒が秘されているとも聞いておるゆえ、のぅ……」
「歌留も忍びの者にあらば、時として毒を用いることも。されど……大石様のそのような申されようはあまりに連れなく」
後の方はどこか甘えた撓垂れ掛るような口調であるが、これも歌留の計算であろうか。
「大石様が邸に妾として入らば忍び働きもやり易かろうとは長の命。されど歌留は……大石様を少しでもお慰め申すべく……」
江戸急進派と上方穏健派、あるいは主家と公儀の板挟みにあって一人耐え忍ぶ大石に、そして何より萱野の死にさえ涙する大石の繊細さに、少しづつ情が移っていることを歌留は自覚しつつあった。大石の伏見通いを、進藤とは別の意で好ましからざると感じていた歌留にとって、長の命は天恵のようにも想われた。今は少しでも大石の側にありその魂を救いたい。歌留の女の部分がそう告白させる。
「うむ、そなたのような若い女子にそのように言われれば、儂もまんざらではないが。さらばお可留よ、近うよれ」
大石は歌留をお可留と呼んでくれた。その気安さが歌留には嬉しかった。月明かりに照らされた歌留の笑顔に大石が呟く。
「こうしてゆっくりそなたの顔を眺めれば、まこと美しい顔立ちをしておる」
あるいは大石の口説き文句であろうか。そっと目を閉じた歌留が囁く。
「歌留はまだ殿方を知りませぬ。どうぞ大石様の良いように」
忍びの報告によって若い妾に現を抜かす大石の様子を得た吉良家では、後に徐々にその警戒を緩めることにつながっていく。




