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一七〇二年一月二十日十六時 山科大石邸

 年が改まって正月二十日。赤穂旧士萱野三平から大石の元に一通の書状が届けられた。萱野は昨年の事変にあって殿様刃傷の第一報を早打駕籠で国許に伝えたうちの一人である。道中実母の葬列に遭遇しながらも役目第一と駆け続けた忠義に厚い臣であり、赤穂藩家中評定において藩論を統一できた背景には、萱野の忠心が藩士の心を打った側面も否定できない。その後も萱野はよく大石の意に従い、隠棲しつつ旧士の間を駆け回っては、大石の意をこれらに伝える役を担ってきた。仮にこの時期の赤穂旧士を江戸急進派、上方穏健派、大石恭順派に分類すれば、萱野は大石恭順派の筆頭に位置すると言えよう。そんな萱野がわざわざ書状という形式を選択したという事実に、大石は多少胸の動悸が高鳴るのを自覚しつつ封を開いた。


 「旧冬以来吉田忠左衛門、近松勘六申し合わせ、当春江戸へ罷り下るべくと存じ奉り候ところ、愚父七郎左衛門その主意を知らず、強くこれを制止候。最も本意を申し開け候はば、却って喜悦仕るべくとは存じ候へども、お手前様へ差し上げ置き候神文の手前も御座候へば、たとい父子の間にてもこの儀口外仕り難く、君父忠孝の間においていささか当惑仕り、之により自殺仕り候」


 萱野は吉田忠左衛門、近松勘六らと相談の上、今春江戸へ下向する予定であったという。しかしその頃、一方では父七郎左衛門の働きで、新たに摂津国豊島郡を領する旗本大島伊勢守から再仕官の口がかかった。無論萱野はこれを断り続けていたのであるが、父七郎左衛門からすれば仕官を断る理由が見当たらない。そこには、自身が折角見つけてきた士官の口であるのに、という多少恩着せがましい気分も含まれていたことであろう。すなわち萱野が固辞すればするほど、父も意固地になり口五月蝿いほどに仕官を勧めた。尤も、萱野の言う通り、仮にお家再興仇討ち完遂の計画を父に知らせれば、父は喜んでこれを受け入れたことであろう。しかし大石に差し出した神文の手前、萱野は父に真意を打ち明けるわけにはいかないと考えた。こうして、父に対する孝心と主君に対する忠心、及び同輩に対する義心との狭間にあって、萱野は進退に極まったという。大石宛の書状を遺して一月十四日、自ら腹を切って自死した。この年萱野、二十八歳。


 「萱野には可愛そうなことをしたが……されど、これからもこのような悲劇は続くことであろうな……」

 誰にともなく呟く大石である。その声には若干涙の成分も含まれていたようである。あるいは昨冬江戸へ下向した折に吉良を討っていれば、萱野はこのような死に方を選ばずに済んだことであろう。果たして萱野無念の横死は、大石の優柔不断の為した業と言えなくも無い。自分の選択が多くの藩士の命運を左右するという事実の非情さを、大石は改めて認識した。何より萱野の死は、「決断しない」という行為ですら「決断しないことを決断しているに過ぎぬ」という容赦の無い現実を、まるで剣術の達人がその切先を相手の喉元に突きつけるかのように、大石の胸に突きたてる。早く決断を下さねば、第二第三の萱野がその生を自ら終えるやもしれぬ。このような非業の死を再び繰り返したくはないが、かといって妙案も無い。そのような大石の悩みを見抜いたかのように若く、多少くぐもった女性の声が天井裏から聞こえてきた。

 「されどそれは、大石様の所為ではございますまい」

 歌留の言う通りである。吉良の側でも未だ警戒を解く様子は無く、あの時討ち入っていれば却って返り討ちに遭っていたことであろうことは想像に難くない。仮に仇討ちをするのであればその人数は四、五十名というのがよいところであろう。それより多い人数であれば目立ちやすく、あるいは企図が事前に漏れる恐れもある。しかしながら今の吉良屋敷の人数やその配置からすれば、四、五十名でこれを襲撃して見事吉良殿を討つは難しい。今暫くは吉良の警戒が解けるのを待つしかない。

 「天の時 地の利 人の和を合して三才と申すが、只今は未だ地の利を得たに過ぎぬ、ということか……」

 何度も繰り返し、その度にたどり着く変わらぬ結論に改めて嘆息する大石である。吉良家屋敷替えにより地の利を得たとは言え……

 「恐れながらただ今にあっては堪忍あるのみか、と」

 無論、大学様お取立てについて公儀の評定が結論を得ていない状況にあって、万一臣下が江戸で騒ぎを起こせば、それは即座にお家再興歎願の棄却を意味しよう。お家再興、仇討ち、いずれにせよ今は未だ、天の時を得るには至らず。

 「ご公儀には、少しでも早く大学様お取立てをお計らい頂きたいものよ。さらばみな、再興なったお家に改めて忠を誓い、良い働きのできようものを」

 地の利を得た、などと仇討ちに気があるかのような発言の後に、大学様お取立てへも言及する。相変わらず大石の真意を図りかねている歌留であるが、いずれにせよ時を待つしかないという面においては意見の一致を見ている。普段であればそのような計算をしつつ大石を誘導しようと試みる歌留であるが、何故かこの時は大石を慰めてやりたいと感じている自分に気づき戸惑っている歌留である。

 「いずれ我らが行く末が定まらば、その節には萱野も同士として余の者と同様、これを称揚してやりたいものだな」

 大石の言に含まれる感傷に、歌留は別のことを考える。なるほど萱野のような義心に富んだ忠臣を失ったことは計画遂行の面では大きな痛手である。しかしこれから先、人の和を得るためには和を乱す可能性のある輩を排除することもあろう。その折毎に大石はいちいち感傷に捉われ、心の呪縛を増やしていくというのであろうか。それではそもそも大石の精神が持つまい。大石は昼行灯であるとの評であり現在のところその評が正しいものか判別のつかぬ歌留ではあるが、精神面においては昼行灯である方が却って好ましかろう。いたずらに傷付かずに済むから。そして、もし大石が繊細で傷付きやすい精神の持ち主であるならば、その魂を癒す存在を必要ともしよう。鳥が風雨を避けて樹下に宿るが如く、船が風浪を避けて港に泊まるが如く。今のところ大石は伏見橦木町の夕霧とか申す遊女に仮泊しているようではあるが……大石の意外な繊細さに触れ、その責の重さに一人きりで耐えている姿を見た歌留の心の内に、何か表現しようのないものが泡立っている。

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