一七〇一年二月二十六日二十時 江戸吉良家上屋敷
「何、今年の勅使御馳走役は浅野の小僧だと?」
朝賀使の役目を終えて江戸の上屋敷に戻った吉良上野介義央は、江戸家老の松原多仲から報告を受けた。義央には以前より長矩に含むところが無いでもない。それを知る松原は、恐る恐る弁明するかのような口調で続ける。
「左様、何でも上様直々のお指図とか」
「ふむ、上様直々の……常であらば老中の合議で決まるものだが……それで、院使饗応役の方はどちらじゃ?」
勅使が天皇の遣いであれば、院使とは退位した天皇、すなわち上皇の遣いである。朝廷からの答礼には、勅使と同時に院使も下向することが通例であった。院使饗応役とは、勅使御馳走役と同様、院使の江戸滞在中の接待と警備を司る役目である。
「今年の院使饗応役は、伊予吉田三万石、伊達左京亮村豊様が申し付けられました」
「そうか。それで……?」
「伊達家からは早々に江戸家老が当家に挨拶にお見えになり、相当の金品を持参して参られました。また、殿様が上方からお戻りになられましたら、当主自ら改めてご挨拶に伺候し、色々とご教授に与かりたい、とのお申し出にありました」
松原は義央に、伊達家の家老が持参した貢物の目録を差し出した。
「ほう、これはこれは……伊達家もなかなかに裕福であるとは聞いておったが」
目録を一瞥した義央は相好を崩した。留守中の付け届けとしては十分すぎるその内容に、義央の期待も膨らむ。そんな主の考えを敏感に悟った松原も、わざと声の調子を一段低くして応える。
「伊達殿自らご来訪の折には、更なる授業料をご持参されることでありましょう」
「勅使御馳走役、院使饗応役は裕福な藩に申し付けられるに限る。何となれば……」
自らの懐も潤う……とまで直截な表現を使うのは、流石に高家筆頭として憚られる。
「勅使殿、院使殿も喜ばれ、ひいては将軍家と朝廷の中もより深まろうというものでありましょう」
そこは心得た松原が合いの手を続ける。
「さよう、公武一体とならば天下泰平相なり、上様のお心にも適うであろう。して、浅野からは何と?」
伊達の貢物に主の機嫌もすこぶる良かったのが、その主自ら話題を浅野に移してしまった。義央の機嫌が悪くなるであろうことは松原でなくとも容易に想像できるところであったが、役目柄、隠し通すわけにもいかず、恐る恐る、主の機嫌を計りながら切り出した。
「それが……浅野の家臣も当家を訪問しまして……」
「して、何と?」
「はぁ、それが……殿様がお戻りになられたら、当主自ら挨拶に参ると申すのみ……」
「ほぅ、して目録はどこじゃ?」
「それが、浅野の家臣は何も持参致しませず、ただ口頭にて挨拶を申すのみにて」
松原の報告に、義央は烈火の如く怒り出した。
「浅野の小僧めは、何も分かっておらぬ。此度の接待が上様にとってどれほど大切であるのか」
吉良は高家筆頭であることを奇貨として高い賄賂を要求する、という芳しくない噂もある。しかし吉良とて、何も世評に言われるが如く己がためだけに賄賂を溜め込んでいるわけではない。高家筆頭であるとは言え、石高はわずか四千五百石。そんな小身で朝廷と付き合っているのである。朝賀使として参内すれば、武家伝奏役をはじめとする公卿連中に贈り物は欠かせない。勅使、院使の下向となれば、無論その接待は接待役が引き受けるとしても、義央にはその上役としての振る舞いがあろう。それらの費用は全て、吉良自身が負担せねばならぬのである。すなわち、接待役からの授業料とは朝廷づきあいを円滑に進めるための原資であり、多少の役得があるとは言え、その大部分は公的な目的のために賄われるのである。それを、授業料を払わないとは、それだけで、将軍家と朝廷との関係に綻びを入れる行為であろう。少なくとも、義央の目にはそのように映った。
「浅野は朝廷との関係にヒビを入れるおつもりか!」
「殿、少しは落ち着かれませ。何も浅野殿も全く持ってこないという訳でもありますまい。殿のご不在中のご挨拶でありますゆえ、むしろ伊達の家臣が行き届いているというだけのことでありましょう。いずれ浅野殿自ら殿にご挨拶に参られましょうに、その際には相応の金品をご持参されようかと……」
「うむ……そうじゃな」
「上方からお戻りになったばかりで、お疲れでありましょう。まずはお休みください」
主の怒りが静まる様子にほっとした松原が続けた。
「浅野、伊達、両家の家臣には、殿様がお戻りになられた由伝えておきますゆえ……」