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[完結(全47話)]神君の遺言 ~忠臣蔵異伝:幕閣から見た赤穂事件~  作者: 勅使河原 俊盛
第六章 流浪の士
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一七〇二年八月二十日十六時 山科大石邸

 江戸の堀部から手紙が届く。この三月ばかりの間、既に複数回書信の交換をしている大石と堀部である。大石からは常に大学長広様第一と諭しているが、江戸にいる堀部としては国許の大石の考えが何とも生ぬるいもののように見えてしかたないのであろう。一度江戸に下って実情を見て欲しい、その上で仇討ちについて相談しようと迫ってくる。

 「大学様ご安否お見届けなられたし段、委細のご存念承知仕り候。ご尤もと存じ奉り候。ご安否お見届けなられ候はば、その後御亡君様へのお志をもお立てなられるべく候ように存じ奉り候。御恩を以ってただいま武士をも立て罷りあり候ゆえ、御死後とて何かと身をかばい申すようにこれあり候ては、何ほどに忠節を尽くすと存じ候ても、真実の忠節これ無きかと存じ候」

 一応、こちらの意図、すなわち大学様お取立ての成否を見届けるのが大切であるとの考えに、賛意を表してはくれている。しかし同時に、安否が定まったら次は仇討ちを実行するものと理解していると言い、一方では殿様の死後と言って身をかばうようでは真実の忠節とは言えないとの皮肉も利かせてきている。

 「主君の敵を見逃し、ご分知の大学様を大切と申すこと、偏に銘々大学様へことよせ、命をかばい候ように相聞きまじく候かな。ご当地大名小名お旗本に至るまで、内匠頭殿の家は久しき家柄にて、定めて義を立てる侍これ無きことはあるまじく候間、主人の敵見逃すには致すまじくと、江戸中の評判にて御座候」

 大学様大事というのはいかにも命を庇っているように聞こえる、と言うのが堀部の本音であろう。大野、安井のような家老連中はその弱腰臆病をさらし、既に盟にはいない。お家に忠義を尽くすと言ってその実、大石もその部類なのではないか、と切り込んでくる。自身の煮え切らない態度をそのように堀部に論難されれば、大石も胃の腑の辺りに痛みを感じざるを得ない。

 「大学様のこと、赤穂そのまま五万石下され候ても、兄親の切腹を見ながら、百万石下され候ても中々人前は相なるまじくと、江戸中取沙汰にて御座候。上野をさへ討ち候えば、大学様人前は罷りなり候。ただいま閉門の内に討ち候へば、大学様立ち申し候。閉門ご免後の仇討ち候はば、大学殿お指図に罷りなり候。御為よろしからず」

 以前歌留と語った通りである。殿様の切腹を見ながら何も為さなければ、たとえ百万石下されても人前はならない、とは江戸中の評判であるという。また、大学様が閉門中であれば問題ないが、閉門を許された後に上野介を討てば大学様のお指図ということになり、宜しくないという。全くその通りでありここについては反論の余地も無いが、それだけに胃の痛みもいや増す大石である。大学様お取立てと殿様仇討ちは両立なり難いことは承知の上で、尚決断を出さないで時を過ごすのは自分自身の優柔不断ゆえであろうか。

 「上野儀屋敷替え仰せつけられ候由、本所筋のように承り候。これにより就中この節内匠殿衆の仕合、存念は達すべし時節と専ら取沙汰仕り候」

 吉良上野介が屋敷替えになったという。新しい屋敷は本所筋であり、これにより内匠頭の家来どもは思いを遂げやすくなったというのが専らの噂であるという。吉良屋敷替えのことは既に歌留から聞いている大石であった。江戸の土地勘はあまりない大石であるが、歌留の説明によれば本所とは大川を越えた先の地であるという。確かに江戸市民の噂通り、いざ吉良邸襲撃となれば元の屋敷よりは容易にこれを実施できよう。

 「ふぅ……」

 堀部の手紙を読み終えた大石が、このところ珍しくも無い溜息を吐く。まるで溜息とともに胃の痛みを追い出さんがばかりに。無論いくら溜息をついたところで痛みの散じるはずもなく、むしろ己には溜息をつく外に為すこと無しとの自覚が無数の小さな針となって胃を突く。傷の痛みであらば薬のひとつもあろうが、この痛みにはつける薬とてない。気を紛らわすかのように大石は庭先に向かって軽口をたたく。

 「まこと薬が効きすぎたというべきか」

 庭の蔭から若い女性の声が返ってくる。

 「されど……」

 「いや、わかっておる。無論歌留の所為と言うに非ず、全く自業自得というものよ」

 先に大石は歌留に依頼した。赤穂旧士が吉良襲撃を企図していると江戸で噂を流すように。噂が大きくなれば吉良は警戒するであろうし、吉良が警戒すれば堀部ら江戸急進派は迂闊に襲撃できなくなる。彼らが暴発して実際に討ち入りなどしてしまえば、それは恐らく大学様お取立てにとって悪い影響を与えることであろう。まずは大学様の安否が定まるまでは、大人しく公儀に恭順してみせねばなるまい。当面の規定路線ではあるが、優柔不断との謗りを免れ得ぬことも承知している大石である。

 「江戸におられる堀部様もお辛いでしょうが、大石様にも……」

 噂が高まれば高まるほど、世間が赤穂旧士に期待すればするほど、実際に江戸にいる堀部らは居ても立ってもおられぬ気持ちになるであろう。いわばその鬱憤を、書信にのせて大石に送りつけてきている。彼らはよい。少なくとも、鬱憤をぶつける相手がいるのだから。自分はどうか。お家への忠義と主君への忠誠の狭間にあって身を焦がす思いでいるのは、自分とて何もかわらない。いや、遺された三百藩士の行く末を見届ける責があるだけ、武士の一分のみを考えておればすむ堀部らとは自ずから立場が異なる。

 「全く……立場が異なるとこうも異なるものであるか」

 孤独を自覚する大石である。上位者は一方では下位者の理を解すること能う。何故なら、かつては自身が下位者であった経験を有するのだから。されど下位者は異なる。上位者になったことはないのだから、上位者が何を想い何に悩んでいるかなど分かるべくもない。巷間言われる通り、器が人を育てるというのはその通りであろう。その器になって始めて理解できることがあることに気づくのが人である。果たして大石は想いを巡らす。殿様も常にかような孤独と向き合われていたのであろうか。上位者の、下位者には決して気づき得ぬ孤独を、今始めて感得する大石である。殿様はこのような時、どのようにして気を紛らわされていたのであろう。

 歌留にとっても大石のその辛さを頭で理解することは可能であっても、心で感じることまでは不可能である。しかし、忍びの者として多様な人物の言動を見聞きしているだけに、余の者よりは少しだけ、その想像の翼を広げることはできた。その翼の元の方では大石のかような繊細さを不安視すると同時に、先の方では大石の精神を癒す必要を感じている。やがて大石が独語する。

 「ちと、伏見にでも行って参るか」

 伏見橦木町。上方でも有数の花町である。大石の居する山科からであれば祇園も至近ではあるのだが、橦木町とはその相場も異なる。祇園で座敷を揚げるとならば、それなりに時と金を要するであろう。今はただ女人の肌に触れこれに癒されたいと願う大石であった。

 「それもよろしいでしょう。近頃ではまだ大石様の周りに吉良や上杉の間者も入っておりましょうゆえ、これらの目を欺くためにも……」

 歌留の許しなど本来は不要なものではあるが、歌留の言に大石は意を強くした。歌留の言は遊女屋通いを正当化してくれた。しかし、それまで曇っていた大石の顔が晴れやかになる様子を見た歌留は、心の内にざわつきを覚える。遊女屋通いを正当化できた程度でこうも表情が変わるような心持ちで、果たしてこの先うまくやれようか。逆に遊女に心を奪われ、大儀を疎かに致すことなどあるまいか……

 「遊女に大石様の心を奪われる」

 と自問する歌留の内に、棘のように引っかかる何かがこの時生まれようとしていた。

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