一七〇一年八月十九日十三時 三次浅野藩下屋敷
故長矩公の奥方は、今は落飾して瑤泉院と称していた。夫の死後は実家の三次浅野家の下屋敷に移り、その菩提を弔う日々を送っている。その瑤泉院の元にこの日、堀部安兵衛、高田郡兵衛、奥田孫太夫の三名がご機嫌伺いに伺候した。
堀部安兵衛、この年三十二歳。元は浪人の身であったがその高名を買われ、浅野家家臣堀部弥兵衛に婿養子入りしたのは七年前のことである。当時念流堀内道場の四天王の一人であった堀部は、同じ道場の門人で叔父甥の義を結んでいた菅野六郎がとある事情から中村三兄弟と高田馬場で決闘することになった際、これに助太刀して見事三兄弟を討ち果たしたことから名を挙げた。有名な高田馬場の決闘である。
「瑤泉院様には殿様のこと、さぞご無念に思し召しのことと察し奉り申し上げます」
浪人中の身にある旧臣が奥方様にご伺候するなどは憚りもあろう。挨拶の後に堀部が続ける。
「私ども、ただいま浪々の身にあれば瑤泉院様にご伺候仕る身に非ずとお蔑みとは存じ奉り候へども、神慮を以って左様なるには非ず、願わくばご寛恕賜りますよう」
旧家臣が安否を訪ねてきてくれたという一事において、瑤泉院はこれを嘉した。
「堀部殿、高田殿、奥田殿。お三名のご高名、かねてより殿様からよく聞かされており申す。まこと本日はよく訪ねてきてくれた」
瑤泉院の本心であろう。従前、江戸詰めの藩士は五十名を数えたものを、事変の後にまでこうして瑤泉院のもとにご機嫌伺いに来るものはまことに少ない。人の世の心変わりをうら寂しく思う瑤泉院である。その瑤泉院の口から、つい本音が零れる。
「江戸家老の安井などと申すは、平素は我が機嫌を伺うに余念の無かったものを……」
大石からは小心者と評された安井である。恐らくは此度の変事に当たり、罪を以って罰された旧主家にいつまでも関わっていることは己が今後のためにならぬとでも考えているのであろう。以来一度も瑤泉院の元を訪ねて来ないという。累代の家老職にある家柄の者とて、主家が危地にあればこれを見放すということか。かつて堀部ら三名が安井宅を訪ねた際、安井は涼しい顔でこう言ったものである。
「そなたらのような同士を得て喜ばしい」
堀部ら三名は心の内で激高する。おのれ安井あれは擬態であったか。されど安井にしてこのようであれば、江戸に残る他の旧士もいずれ劣らぬ腰抜けばかりであろう。かような体たらくでは定めし仇討ちなど覚突かぬ。高田が瑤泉院を、あるいはその実は自らを鼓舞するかのように言を挙げる。
「我ら何れも外様者、新参者に御座候へども……」
高田郡兵衛、この年三十六歳。高田流槍術開祖高田吉次の孫に当たり、かつては老中小笠原佐渡守にも仕えていたことのある槍の達人である。彼もまた、その後の浪人生活の後赤穂浅野家に迎えられた。堀部も高田も長矩の代から浅野家に仕える、いわば新参者の家臣である。それだけに古参の家臣に対する憚りもあるが、かような非常時にあっては新旧の別など最早拘うべきでもないであろう。ましてや、古参の家老と言えども腰抜けというのであれば……
「この節の儀は新古の差別これ無く存じ候」
堀部、高田の両名とは異なり古参藩士の奥田が高田の言を引き取る。奥田孫太夫、この年五十五歳。十五の時に先代長友公に仕えてより四十年、江戸詰めの藩士として藩を支えてきた。剣術においては堀部と同門の念流堀内道場であり、その高弟としても知られる。堀部、高田、奥田の三名はいずれも剣槍の達人であり、その武を以って名を挙げたいわば武断派の藩士と言える。爾来三名の元には仕官の誘いが引く手数多であるものの、彼らには武士の一分を果たさずして再仕官するなど、考えようもないことであった。仇敵が未だ安穏としている江戸にあってこれを討たぬは武門の名折れであろう。堀部が訴える。
「我ら新参と言えども殿様のご無念を果たさずして君恩に奉ずるの道を知らず。さらば我等が仇を討ち、以って冷光院様が御霊と瑤泉院様が御心を安んじ奉らん」
口調は丁寧であるが隠しようも無い心中の熱さをさらけ出す堀部に、瑤泉院は三人にとっては意外な返辞をする。
「先日、片岡殿らが我が元へ伺候した際……」
片岡源五右衛門、亡き殿様と同齢の三十五歳にして殿様の寵臣。九歳の時から殿様の小姓として仕えており、一説によれば男色の間柄にもあったと言う。家中では唯一殿様切腹に立会い、また泉岳寺の殿様墓前では、同じく小姓の磯貝十郎左衛門と共に髻を落として復仇を誓ったという。瑤泉院によれば彼らはその後江戸に潜伏し、これも吉良邸討ち入りを企てているらしい。堀部ら武断派の面々はこれら小姓上りの寵臣派を、いざという際には頼りにならぬ軟弱者ものと看做していた。しかし、瑤泉院様のお考えは異なるらしい。
「殿様復仇を企図するは、そなたらのみにあらず。よろしく江戸、上方を問わず余の者と共に計りてこれを為さん」
堀部ら三名は、改めて瑤泉院を前に平伏する。兎にも角にも瑤泉院様に仁義は切った。幸いこれに反対されぬどころか、江戸、国許にある同士と計れとの御意を得た。まずは片岡らと会合を持ち、江戸の同士を結集すべし。上方の大石殿などよりは余程我が意を容れてくれることであろうし、江戸の同士の数が大きくならば、大石殿への圧力にもなろう。
こうして堀部安兵衛ら武断派は片岡源五右衛門ら寵臣派を糾合して江戸江戸急進派を形成していくことになる。そして堀部の考え通り、江戸急進派の拡大は、今後大石を大いに悩ませることとなる。そして奇しくもこの日、彼ら江戸急進派にとっては更にこれを勢いづける重大な決定が江戸城で通達されていた。吉良家の屋敷替えである。




