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一七〇一年五月十一日十時 赤穂城下

 四月十九日に城を明け渡して後、大石以下数名の官吏には尚、領内訴訟の整理や貸付金の回収などの残務整理の任が残された。登城してこれらの残務に当たるわけにはいかない大石は、近隣の遠林寺に会所を開いて執務を再開していたが、その執務についてもほとんど目処が立った頃、目付としての任務は終わったとして荒木十左衛門、榊原釆女の両目付が江戸に戻ることになった。大石は両目付に最後の挨拶を行うため、宿舎を訪問する。

 「大石殿、此度の赤穂開城並びに残務処理、故内匠頭殿のご遺訓を忍ばせ、まこと良く行き届き感心至極であった。この一事により赤穂浅野の令名もいや増すことであろう。まこと持つべきものは、大石殿のような忠臣よ」

 大石の働きにより、困難と思われた藩論の統一から領内平定、更には受け渡しに伴う目録の整備と城内清掃に至るまで、一切の処置が円滑に進められた。主家お取り潰しの非常時にあっても尚冷静沈着に対応し、かつ一分の不備や隙を見せない大石の手腕に、両目付が感心していたのは本心であろう。荒木の嘉賞に恐れ入り平伏する大石に、榊原も続ける。

 「お取り潰しとは申せ浅野殿も大石殿があらばこそ、後顧の憂いなく見事な最期を遂げられたことであろう」

 面を下げたままの大石の頭を、長矩の辞世が過ぎる。 

 「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせむ」

 殿様はまこと後顧の憂いなく死出の旅路を逝かれたのであろうか。いやむしろ、春の名残を憂いているのではあるまいか。しかし、今はまだ……大石は意を決して面を挙げる。

 「恐れながらご両所様方のご寛恕を以ちまして、申し上げたき儀がございます」

 「うむ、構わぬゆえ申すがよい」

 「さらば、故内匠頭儀、不調法の仕形につきお仕置き仰せ付けられました段、まこと申し上げるべき筋これなし。されど、権現様天下一統以前より台徳院様へご奉公申し上げ、爾来累代ご高恩を蒙る譜代並みのお家柄が、冷光院様の代を以って断絶相仕るの儀、誠に残念至極。舎弟大学も猶閉門仰せ付けられておりますれば、憚りながら両お目付方のお取り成しを以って、何卒大学の再びご奉公が相勤まりますよう、ご老中方にお取り計らい賜りたく」

 平身低頭する大石の頭に向けて、少し声音を柔らかくした荒木が告げる。

 「大石殿の申し分も余儀なしのこと。江戸帰府の折にご老中様方に奏上しても苦しくはないと存ずるが、榊原殿はいかように」

 「荒木殿の言はまことにご尤もにて、某に異存はござらぬ」

 目付二人の厚情溢れる態度に内心では感動しつつ、大石は、尚平伏したままで言を継ぐ。

 「まことに有難き仕合わせ。大学の面目が立ち人前がなりますよう、重ねてお願い申し上げる次第」

 こうして荒木、榊原の両目付は赤穂を発ち、江戸へ戻った。


 目付一行を見送った後遠林寺の会所に戻った大石を、歌留が天井裏で待っていた。

 「首尾よくお目付様方にはご歎願叶いましたご様子にて」

 「うむ、お目付様方には大学様の面目が立ち人前がなるようお願いしたところ、ご老中方にこれを奏上して下さるとのことであった」

 「それは御目出度うございます。改めてご公儀にご歎願なりますれば、まずはお家再興の第一歩。されどこれはいわば大手攻めの正攻法。大石様には他の策もお考えかと」

 「さすがは歌留よ、我が心の内を良く知っておる。さらばここ、遠林寺の祐海和尚に労を取って頂く所存」

 「祐海和尚……さらば隆光大僧正に…」

 「左様、祐海和尚には江戸に上り、隆光大僧正を通して上様に奏上して頂く」

 隆光大僧正は真言宗の僧侶にて、将軍綱吉ならびにその生母桂昌院から多大な帰依を受けている。一説には後世悪名の高い生類憐れみの令を将軍に進言したのも隆光であるというが、信心深く根が真面目な綱吉であれば、隆光の口添えにはそれなりの効き目があろう。仄聞するところ、此度の長矩への仕置きは将軍の独裁であるという。そうであれば老中からの奏上という正攻法よりはむしろ、隆光からの口添えのような搦手からの攻勢の方が効果が高いとも思われる。

 「なるほど、それは良きご思案。大手からの歎願と搦手からのご奏上が相成りますれば恐らく……ところで祐海和尚には、大石様の嘆願書をお持たせになられますので?」

 歌留としては大石の手の内を事前に知っておく必要があった。大石が書を持たせるつもりであればその書の意を予め知っておき、事と次第によっては隆光に曲解させるような布石を打つ必要を考えている。そうと知ってか知らずか、大石は即答する。

 「いや、陪臣たる儂の書では隆光大僧正殿は動かれまいよ。あくまで赤穂浅野家祈願寺の住職としての立場で、同じ僧門にある隆光大僧正に遠林寺の旧主お取立てを願う、というのが筋であろう。さらば書などは持たせぬが、祐海和尚には良く言い聞かせておく。ご舎弟大学様ご赦免、首尾よく人前がなるよう願い奉るべし、と」

 大石の考えを聞きだした歌留は無言を以って諒解を示した。

「ついては歌留よ、再び江戸に使いしてくれ。祐海和尚の隆光大僧正との接触を佐け、重ねて、ご公儀の大学様ご赦免のご意向を探ってもらいたい」

 「承知」

 天井裏から歌留の気配が消えるのを待って大石は一息つく。次に歌留が帰って来る頃には残務整理も終了していよう。さすれば山科に移って次の計画に備えることになる。今後の計画、すなわち大学様お取立て運動には、時と相手によっては金銀を使う場面も出てこよう。そのように考えた大石は、残務整理を通して手元に残った公金、これらは先に分配した公金の剰余に貸付金を回収したものを合したものであるが、これを今後の活動資金とすべく「預置金銀受払帳」として出納の記録を残しておくこととした。この預置金銀受払帳は後に瑶泉院様、すなわち亡き殿様の奥方様に収支記録としてご報告することになる。

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