一七〇一年四月十九日九時 赤穂城
赤穂城は故長矩の祖父長直が四十年前に築城した海岸平城である。城の南は城壁が瀬戸内海に面しており、東には千種川が流れている。また東・北・西の三方を囲む濠は海と川に接続することで、水を巧みにその防御に利している。攻城軍は城郭を破壊するための大砲を配置したくとも、水上から砲撃することは難しく、結果として北の大手門か西の塩屋門より攻める他ない。一方で曲輪配置は本丸を二の丸が取り囲む輪郭式に、陸に面した城の北と西のみ三の丸が囲う梯郭式を複合した構成となっている。すなわち、輪郭式の全方位防備に加えて、弱点である北側に重点防御を施した重防備である。これを陸上から攻城する場合にはそれだけ厚い防御を破らねばならず、一方の防御側から見れば本丸を大砲の射程外に置く効果が期待できた。すなわち赤穂城は守るに堅く攻めるに難いまさに名城と言えよう。例え残された赤穂藩士が三百の小兵であろうと言えど、能く十倍の兵を敵とすることであろう。
収城使の脇坂淡路守、木下肥後守は、幕命によりそれぞれ四千五百、千五百の兵を従えて赤穂まで下ってきていた。一方では無血開城を命じているとは言え、公儀としては念のため、これに従わない場合も想定する必要がある。実際家中評定でも意見のあった通り、開城は主命ではない。赤穂藩士三百名には幕命に従うを潔しとせず篭城抗戦という選択肢もこの時点ではまだ残されており、一部の藩士が最後の抵抗を試みる可能性も想定された。その点において収城使とは単なる開城儀式の名代ではなく、万一の場合には戦闘により落城させることを期待された実力部隊なのである。更に公儀は、これに加えて海上・陸上に近隣諸藩からの軍勢を配し、いざ開戦とならば徹底的に鎮圧できるだけの戦備を整えた。そのような情勢下で前日夕方には赤穂城下にまで軍勢を進めた脇坂、木下の両収城使は、城受け渡しの予定日を翌日に迎え、緊張した一夜を明かしていたのである。
午前九時、脇坂淡路守は目付荒木十左衛門の同道で北の大手門より、同じく収城使の木下肥後守は目付榊原釆女の同道で西の塩屋門より、それぞれ赤穂城に入城を開始する。両収城使とも馬上先頭での行軍である。
「か~いも~ん」
脇坂淡路守の命に従い大手門が開門される。脇坂は門内に兵を配するや三の丸を南に進む。三の丸の各要所、各門に適宜将兵を配しつつ南進すると、二の丸門前で西の塩屋門から入城してきた木下肥後守と合流する。両者馬上のまま挨拶を交わすと、二の丸門を開門させ二の丸を南進して、さらに各要所に将兵を配していく。
こうして、三の丸、二の丸を順に制した収城使一行は本丸門に到着する。さて、ここまでは全く抵抗が見られなかったとは言え、ここからがいわゆる本丸。本丸は防御側の最後の砦であるため、築城するに際してもそれだけ厚い防備を施したことであろう。また仮に、赤穂藩士どもが少数の残党で最後の抵抗を見せるつもりであれば、やたら兵を配置して兵力分散の愚を犯すことはなく、恐らくは本丸をその主防衛線として集中防御することであろう。すなわち、ここまで全く抵抗が無かったという事実が、今後も抵抗が無いということを証明するとは限らないのである。多少の緊張感が脇坂、木下をして無言で目礼を交わさしめる。
「か~いも~ん」
やがて本丸門が静かに開門されていく。無事開門されたことへの安堵に多少の拍子抜け感を交えつつ、脇坂と木下が目配せし合う。恐らくは国家老大石某が家中説得に成功したのであろう。両名は馬上のままゆっくりと進軍を再開する。城引渡しに伴う目録の確認と城内の検分は既に荒木、榊原の両目付が前日までに済ませているため、最後の抵抗もないまま本丸まで進軍した時点で、収城使の両名は実質的にはその役目を終えたと言って差し支えないであろう。
収城使、目付の四名が本丸屋敷まで馬を進めると、玄関脇に大石の出迎えを受けた。
「収城使脇坂様、木下様、並びに目付荒木様、榊原様にはわざわざのお運び恐縮至極に存じます。某は赤穂藩家老大石内蔵助良雄と申します。故内匠頭に替りお城お引渡しを仕りますれば、まずはこちらに」
大石の案内で収城使、目付の一行は大書院に通される。大石から城引渡しに付随する目録一式が改めて差し出され、それを脇坂が逐条確認している間中、大石は平伏している。
「お城首尾よく相渡し候段、神妙に思し召し、しかる上は早速退去仕り候よう」
やがて脇坂淡路守より言があり、お城明け渡しの儀式はここに無事終了した。後は退散するのみである。既に旧赤穂藩士は一月の猶予の後赤穂領から退去することを命じられていた。そして本日只今下城すれば、二度と再びお城に上がることは許されない。分かりきっていることではあるが、改めて脇坂から告げられると、込み上げてくる寂寥感を拭い去れない大石である。
幼名を松之丞と言った大石は、筆頭家老の家柄に生まれたため幼少の頃より先代長友公のお召しにより登城することしばしばであった。無論長友公には、嫡男犬千代、後の長矩に松之丞を早くから引き合わせ、未来の赤穂藩を任せることになる二人の若者の仲を取り持つ心積もりもあったのであろう。松之丞は時には庭先で剣術の、あるいは馬場では駆け競べのお相手などもして差し上げた。そんな時のわが子らを見る長友公と父良昭の視線を今更ながらに思い出す。松之丞に面を打たれて泣き出した犬千代を笑いながら叱咤する長友公。慌てて庭先に飛び下がり泣き顔の幼児に平伏する良昭……この城のあちらこちらに、犬千代長矩公に対する松之丞の忠誠の証が散り嵌められている。だがしかし、もう二度と、殿様に忠節を尽くす機会は与えられない……
その後長友公は急逝し、犬千代は幼くして家督を継いだ。幼少の殿様を家中一同でお守りして二十七年。そんな家中を、殿様の方ではどのように思し召しであったろうか。大石は常に殿様に忠誠を尽くしてきたつもりではあるが、幼き頃より弓馬の道も四書五経も、みな九歳年長の松之丞が先んじていた……そんな大石を、長矩公はどのように思召しであったのであろうか。家老どもはみな殿様より年長であり、殿様が犬千代であった頃からの家老であった。殿様にはそれが窮屈にお感じだったのではあるまいか。殿様をお守りする、殿様に忠誠を尽くすと申すは所詮、殿様を年長の家臣が縛り付けるだけのことではあるまいか。此度の殿様のご不行。あるいは殿様は、ようやく殿様らしく振舞うことができたと思し召しか。赤穂浅野の名にかけた、一世一代の大仕事。
「この段、かねてより知らせ申すべく候へども……」
殿様最期のご口上という。それは恐らく、江戸家老安井などに申しても詮無きこととのお考え。されど、せめて自分には知らせて欲しかった。殿様は筆頭家老の自分にさえも、知らせるおつもりがなかったというのか。いや松之丞であるからこそゆえ、か。最後の最後になって、犬千代様は松之丞の忠誠をお疑いにあったのか。そして結局……自分は先代長友公のご期待に沿えず、二代に亘って受けたご恩をお返しすること能わず。ただ徒に時を過ごし、こと全て成ってからこれを知るのみ。この城にあっては、もう二度と、殿様に忠節を尽くす機会が与えられない……
無念と後悔と、無力感と寂寥感と、せつなさとやるせなさと……下城の道すがら天守を振り返り仰ぎ見るたびに、様々な感情が大石の胸に去来し何かを抉っていく。振り返らなければ、あるいは抉られぬかもしれぬ。頭ではそう考えても、次の瞬間にはまた抉られる。あるいは、この痛みこそが我が忠誠の証となるまいか。さらば、今は痛めつけられるだけ痛めつけるがよい。後日の捲土重来を期すために。




