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一七〇一年四月十一日九時 赤穂藩大石邸

 「ご家老様、ただいま戻りました」

 歎願使として江戸に赴き、結果何ら成果もなく赤穂に戻ってきた多川、月岡の両名が復命する。両名を書院に通した大石が上座から問う。

 「まずは役目大儀であった。して首尾はいかように」

 面を上げることもできず平伏したままの状態で、口ごもりながら多川が答える。

 「それが……我々両名が江戸に到着した時分、荒木様、榊原様におかれては既に二日前に江戸を発たれたとの由にて……」

 思わぬ事態に動揺を隠せない様子で大石が畳み掛ける。

 「よもや、荒木様、榊原様にはお伝えできなかったと申すのではあるまいな」

 大石の声音に多少の疑念と怒気を感じ取った多川は、益々小さな声でようやく一言だけ発することができた。

 「それが……如何様にも……」

 多川の身が縮こまるように平伏する姿に、こちらも自然と小さくなっている月岡が言い訳めいた言を挙げる。

 「それが……我々も如何様に為さんか思案に暮れておりましたところ……歌留と名乗り大石様の手の者と申す者の助言にて……安井様に……」

 「安井に相談したと申すか」

 今度は明らかに怒気を纏った声が月岡の言を中途で封じる。

 「あれほど安井には相談してはならぬと申し付けたものを、そなたらは一体何を考えておるのか」

 大石の叱責に平伏するばかりの両名を睨み付けながら、大石は続ける。

 「二日前の出立なれば、急ぎ街道を戻らば赤穂への道中にてお会いすることも叶うたであろうに……」

 目付の二人はまだ赤穂には到着していない。であれば、恐らく帰途においても道中で目付一行を追い抜いていたことであろう。大石の言に今更ながらその手があったと気づく二人であるが、今となっては時既に遅い。話題を替えるべく多川が慌てて面を挙げつつ懐から書類を取り出す。

 「されば、戸田釆女正様並びに大学長広様から口上書をお預かりしておりますゆえ、ご家老様にこれを……」

 多川から二通の口上書を受け取った大石は、それを丁寧に広げ内容を確認する。大石がそれを読み終わる様子を確認した多川が、改めて平伏しつつ申し添える。

 「また戸田様よりは、ご公儀にお届けあったとの由。その際、作法よく開城し、くれぐれも赤穂領内で騒ぎなど起こすべからず、左様ご公儀よりご注意あったとの由、承りましてござります」

 安井などに相談すればこうなることは目に見えていた。これでは殉死歎願などしても無意味であるどころか、却って大学様にご迷惑をお掛けすることになる。開城まであと八日。ここ数日のうちに目付、収城使ともに赤穂に到着することであろう。今はまず、戸田様からの口上書とご公儀からのご注意を盾に、ともかくも藩論を開城の線でまとめねばなるまい。無論、篭城派や仇討ち派は猶血気盛んではあろうが、その血気が主家に弓引くも同じとならば、それ以上騒ぐこともできまい。

 内心ではそのような計算をしながら表面上は尚、両名に対して怒り、同時に呆れた様子で独り言ちる。

 「そなたらのような無能者に歎願使なぞ命じなければよかったものを、儂も焼きが回ったとみえる……」

 「もうよい。これ以上諭じても詮無きこと。下がってよい。役目ご苦労」

 そう告げると大石は座を立ち庭に出た。


 多川、月岡の両名がほうぼうの体で大石邸を辞すると同時に、庭の隅に人の気配を感じた大石が声をかける。

 「なかなかの助力であったようだな」

 多少の蔑みを言外に匂わせた大石の声音に、こちらは常と替わらぬ調子の若い女性の声が返ってくる。

 「恐れ入ります。されど、結果としては宜しかったのでは……」

 含みを持たせた歌留の返答に、大石が問い返す。

 「ほう……結果としては良かった、と……それはなにゆえ?」

 「されば……」

 冷静に大石を諭すような口調で歌留が続ける。

 「これでお城は無事開城となりましょう。下手に篭城などしてご公儀に逆らうは無意味。大石様にも端からそのおつもりでありましょう」

 「うむ、確かに無事開城とならば、まずは執着……されど問題は……」

 大石は歌留の言を認めつつ、その後の問題について歌留の意を問う。

 「左様……大学様お取立ての道を目指すにあらば、まずはご公儀にその意を知らせる段には成功したと見るべきでしょう」

 「歌留がそのように申すには、何か根拠でもあろう」

 「さらばご公儀においては、大学様お取立てについてこれから内々に評定されるご様子。その証ではございませぬが、ご公儀におかれては故浅野内匠頭長矩公がご葬儀をお許しになられたとか」

 歌留の意外な返答に大石は心底驚き、その驚きを隠そうともしない。

 「それはまことか?」

 「今月十四日、亡き長矩公の月命日に、芝高輪泉岳寺において葬儀を執り行うこと、並びに位牌、戒名については常の作法に従うてよい、とのお許しが出た由聞いております」

 大石の頭にある疑念の雲を晴らそうとするかのように、歌留は一言一言、ゆっくりと、かつはっきりとした口調で伝える。

 「そうか……ご公儀は殿様を罪人ではなく大名として……さらば、大学様お取立てもあり得ることよ」

 長矩公が罪人として処されたのであれば、位牌も戒名も許されぬことであろう。それが常の作法によるとならば、ご公儀は長矩公の罪を許した、と考えることもできる。されば、大学長広様の罪も許されるのが筋。大学様の閉門も早晩お許しになられると期待できよう。

 大石の思考がそのように多少の楽観を含み始めるところを、歌留の、今度は少し怜悧な印象を与える口調が遮る。

 「一方、もし故内匠頭様が仇を討たんとせば……」

 そう、まだその道も残っている。その場合には……

 「殉死で藩論をまとめ上げた際に脱落した者どもについては、今後は関わらせないことが適いましょう」

 そう、大野や安井のように、小心ゆえに大事の前にその秘を漏らす恐れのある者を同士に加えることはできまい。此度の藩論取り纏めの過程において、それらの者は衆議により弱腰の卑怯者と決め付けられ、評定の座から退出させられた。今後、仮に仇討ちについて議するに際しても、これらの者を含めないことは、排除した側、排除された側、双方の共通認識となろう。何しろ、大石に対し神文を差し出したという事実は重い。誓詞を差し出さぬ者が異を述べるは、筋が立たぬが道理であろう。

 「更には……」

 大石の思考を待って一拍おいた後、歌留が続ける。

 「此度、一度は殉死となるも後撤回とならば、拾った命ゆえに殊更大事に感じる輩もおりましょう。さらば将来的には、これらの者も篩にかかることとなりましょう」

 評定においては、大野のような卑怯者と呼ばれたくないという一心で同意した者も大勢おろう。これらの者は、いざというときの頼りにはなるまい。勢いで死を覚悟した後に生を拾った者にとって、再度命を捨てる決断をすることは難しかろう。歌留の言う通り、此度一度は殉死と決議したことは、結果として、将来真に命を捨てる覚悟を持つ者のみを同士とするための仕掛けとなろう。

 「さらば、大石様はどちらの道をこれからお選びになられましょうか」

 「うむ……まずは首尾よく開城した上であらためて……」

 はっきりと答えない大石の心中を代弁し、決断を促すかのように歌留が断定的に告げる。

 「見事お城を開城なさり、その上で御目付様方に改めて大学様お取立てを歎願される。もしご公儀においてその儀容れられなくば、その際には内匠頭様が仇をお討ちになる。今のところはその二段構えがよろしいか、と」

 人は何かを決断する際、その裏に複数の代案なり選択肢を保持しておきたいと考え易いものである。この場の歌留は巧妙にも、大石にどちらかひとつのみの選択を強要せず、むしろ両取りの策を進言した。それは万人にとって受け容れ易いものであり、この時の大石にとっても、それを否とする理由は見つけ難かった。

 「左様……まずは開城の上で改めて歎願するのが筋。我が意を容れて頂くにも、いずれ首尾よく開城するが要となろう」

 黙って頷く歌留に、大石が違う話題を投げる。

 「さらば、お城引渡しの上は儂も山科辺りに居を構えようかと考えておるのだが……」

 大石の意を察して歌留が続ける。

 「山科にあらば赤穂よりは江戸に近く、お家再興、仇討ち、どちらにしてもご都合がよろしいことでありましょう」

 「うむ、江戸に近すぎず、赤穂からも遠すぎぬことが肝要。さらば歌留に頼みたい。儂の山科での居を探しておいてはくれまいか」

 言外に、今後も歌留を使うという、いわば諜報業務の委託契約延長を申し出た大石に、歌留は問いを発することで諾を返す。

 「山科へは奥方様やお子様方もご一緒に?」

 「うむ。まぁ、当面は……晴耕雨読の日々となろうが……」

 当面はということはあるいは……歌留は大石の内心の意を勘繰りつつ、それとは気取らせぬ態度で相槌を打つ。

 「それはお羨ましいことにて……さらば歌留の羨むような日々を過ごすがための居を、見繕って参りましょう」

 「よろしく頼む」


 歌留が去った後、大石は城下に総登城を触れる。この総登城が、遺された赤穂藩士三百名の、最後の評定となるであろう。

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