一七〇一年二月二十日十三時 江戸城帝鑑の間
「浅野内匠頭長矩儀、勅使御馳走御用仰せ付けらる」
播州赤穂五万石の大名、浅野内匠頭長矩は、江戸城において月番老中の秋元但馬守から勅使御馳走役を仰せ付けられた。将軍家は毎年正月年頭に当たり、朝廷に対して奉祝の朝賀使を遣わしており、これに対して答礼の勅使が江戸に下向するのが慣例である。この年の朝賀使は高家筆頭の吉良上野介義央が務めており、答礼の勅使には柳原前大納言資康、高野中納言保春の両名が下向する予定であった。そして、浅野長矩は、これら勅使が江戸に滞在する間の一切の接待と警備を受け持つ大役に任ぜられたのである。
「この身に余る有難き仕合わせ。勅使御馳走御用、謹んでお受け申し上げます」
慇懃な口調で長矩は答えた。儀式はこれで終了である。少し和らげた口調で秋元但馬守が繋げた。
「尚、これは命には非ざるが儂から敢えて申し添えておく。此度のお役目は上様直々のお指図である。左様心得、役務に励むよう」
「身に余る光栄……」
長矩にとって、勅使御馳走役は二度目のお役であった。一度目は十八年前、まだ十七の頃のことである。あの時は江戸家老が全て差配してくれたとは言え、大過なく役務を勤め上げた。此度はその経験も生きよう。また、赤穂は表高は五万石の小藩であるとは言うものの、塩の生産と販売で大きな収益を稼いでいる。その財力も使って勅使をご接待申し上げよ、という上様のご意向でもあろうか。
「某と我が藩の全てを賭けて、お役目努め上げる所存にて」
「うむ、上様のため、桂昌院様のため、浅野殿の忠義を期待しておりますぞ」
将軍家は現在、朝廷に対して将軍綱吉の生母、桂昌院の従一位昇進運動を行っている最中である。従って毎年の恒例行事とは言え、この年の勅使御馳走役の、その任の重要さは例年に比べるべくもなかった。かような大役に長矩は抜擢された。しかも、将軍直々の指図であるという。外様とは言え浅野家は、関が原以前より徳川に与力してきた譜代並みの家柄。此度のお役目は大任であればあるほど、上様の信任も厚いことの証であろう。
「左様、上様と申さば浅野殿は先日、上様に赤穂の塩を献上されたとか。上様におかれては赤穂の塩をいたくお気にいられたご様子にて、此度の勅使御馳走役が万事うまく運んだ暁には、赤穂の塩を江戸で販売することを許してもよいとの仰せであった」
秋元は、その領地経営にあってはよく殖産興業に励み、後に川越を小江戸と称せられるようになる礎を築いた。また将軍綱吉と年齢も近く、以前よりご進講を務めることが多いため、綱吉からの覚えもめでたい。社交家でもある彼はその性ゆえ将軍の真意に触れることも多く、且つはまた、こうして役目の埒外にて長矩にその裏の意を伝えることも叶う。あるいは将軍綱吉も、その辺りを見据えての人選であろうか。
「何と秋元様、これは望外の喜び。赤穂の田舎で造りし塩ゆえ、上様のお口に合わばと思うておりましたが」
「いやいや、赤穂の塩は饗庭の塩より見事であるとの仰せであった。江戸の民も赤穂の塩が手に入るようにならば、きっと喜ぶであろうな」
それは、秋元の言外の激励であった。見事役目を果たして江戸で赤穂の塩を販売せよ。それは赤穂藩にとって大きな販路を開拓することになるであろう。長矩も今年で三十五歳。十七の時とは世間を見る目が異なっている。ここで財を惜しむべからず。勅使には大いに財を用いて気持ちよく京にお帰り頂く。而して、よろしく桂昌院様が昇進の暁には赤穂も塩で潤うことであろう。尤も、長矩のそのような考えを見抜いての秋元の付言であろうか。勅使御馳走役の成功とは、つまるところその上司である老中の手柄でもあるのだから。
「されど、饗庭の塩より見事との仰せには、某には恐れ多いことにございます」
饗庭の塩とは吉良領で作っている塩である。矢作川下流の幡豆郡を領地に持つ吉良家は、以前より矢作川河口付近の干潟を干拓して、塩田の開発を進めている。その吉良家の当主義央はこの年の朝賀使であると同時に、これから長矩が勅使御馳走役について指南を受けねばならぬ師でもある。塩の販売のことで今吉良と揉めるのは得策ではなかろう。恐れ多いとは、長矩の真情であったに違いない。
「うむ、いずれにしても勅使御馳走が終わってから。まずはお役目大事に励まれよ」
秋元もその辺りの機微に気づいたものか、それ以上の深入りは避けた。しかし、この時の秋元には、浅野内匠頭長矩に勅使御馳走役を仰せ付けたことが引き起こす事件を予見することは適わなかった。無論、当の長矩にも……