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一七〇一年四月五日十三時 江戸市中

 多川九左衛門、月岡次右衛門の両名は、大石との約束通り四月五日午前に江戸入りした。その足で目付荒木十左衛門の役宅に向かったが、荒木、榊原の両名は既に二日前の四月三日には江戸を発ち赤穂へ向かったとのことであった。恐らく、東海道の道中で目付一行とすれ違っていたのではあろうが、それと気づかなかった両名である。お家の一大事を任されながら役目を果たせなかった自身の悲運と無能を呪い、とは言え今後どのように処すべきか良い思案もない両名は、往来を行く人の流れに身を任せるかの如く、ただ呆然と歩を進めている。行くあてもないまま……。

 「やはりかくなる上は、ご家老安井様にご相談するより他に法が無いのでは」

 一方の月岡が言えば他方の多川も返す。

 「されど大石様からあれほどきつく申し渡されたことゆえ……」

 今朝からもう何度繰り返したかすら分からぬやり取りである。あと百篇は繰り返すかと見えたところ、ふいに両名の後ろから誘うような声がかかる。

 「恐れながら、赤穂藩藩士多川九左衛門様、月岡次右衛門様とお見受けしますが」

 多川と月岡が腰の刀に左手を添えながら同時に振り返る。町娘の体をした、しかしどこか色気と毒気を感じさせる若い女子の姿を視界に収めた多川は、それでもなお警戒心を隠しもせず、左手を刀に添えたままやや腰を落として誰何する。

 「その方は?」

 先ほどとは響きの異なる、ややくぐもった声が返る。

 「往来ゆえ膝下せぬご無礼をお許しください。私は歌留と申す大石様の手の者。恐れながらご両名の江戸でのご使命を蔭ながらご助力するお役目を頂戴しております」

 また元のどこか艶やかで誘うような口調に戻った歌留が続ける。

 「歌留は多川様、月岡様のお手伝いをしとう存じます」

 やや呆れた調子で月岡が告げる。

 「手伝いと申すは良いが、既に荒木様は江戸を発ち、我らは役目を果たせず。その方はそれと知らぬのか?」

 最後の方はやや詰問調である。まるで、自分達の不始末が歌留の所為であるとでも言わんばかりに。情緒的に同心する多川が後を引き受け、責任転嫁を図る。

 「それともそちには何か良い思案でもあると申すか?」

 歌留は、両名の無能で低俗な責任回避論を心中では嘲笑いながら、しかし表情には出さず口調だけは軽やかに続ける。

 「恐れながら既に多川様、月岡様にもそれとご承知のはず。この上はご家老安井様にご相談されるの他に道なし」

 呆れを通り越して疲れきったような口調で月岡が言う。

 「それは大石様からきつく止められておる。さればこそ我らも思案が無く困っているところよ。大石様の手とは申せ、所詮は伊賀者、女子ゆえの浅はかな考えよ」

 とは言え、どうしたものか。最後の方はため息混じりの月岡に対し、どこまでも屈託の無い声音で歌留が促す。

 「いえ、それは歌留も存じております。されど、他に法もございますまい。されば……」

 誘うような歌留の口調に、まるで幻術にでも掛けられたように多川、月岡の両名が続ける。

 「されば……?」

 「されば、大石様には歌留からご報告申し上げます。多川様、月岡様のご両名には大石様からのご指示をきっと守られようとお考えのところ、歌留が安井様にご報告申し上げようと申した、と」

 「さようか、歌留殿がそのように……」

 あるいはまこと、伊賀者は幻術でも使うのであろうか。両名の顔に久しぶりの笑顔が戻る。自分達は大石様との約束を果たさんとしたが歌留のせいであれば仕方なし。両名にとって、歌留は観世音菩薩様のようにも見えた。いや、本来は歌留であろうと誰あろうと、誰か他人のせいにできる性質のものではない。平時の両名であればそれと解したであろうが、切羽詰った状況では冷静な判断などできようはずもなく、またそうと察すればこその歌留の誘いである。

 「安井様宅へ向かわれるのに歌留がご一緒では差し障りましょう。さらば歌留はこれにて失礼致しますが、ご両名には無事お役目を果たされますよう」

 「うむ、相分かった」

 およそ泣き出しそうな顔の二人が歌留の提案に破顔し、最後には殊更威厳を見せつけようとする。その心情をそのまま表情に出してしまう二人のありようが、歌留にはたまらず可笑しくも見え、またそうと知ってか知らずか、結果的にそのような両名を歎願使に選択してしまった大石に、歌留は心の内で感謝した。


 多川、月岡両名から嘆願書を見せられた赤穂藩江戸家老安井彦右衛門は、果たして、大石の予想通り狼狽えた。そしてその狼狽ぶりを誤魔化すため、二人の歎願使を難詰する。

 「なにゆえそちらはこのような嘆願書などを携えて江戸に罷り越した」

 無論それは両名の責任ではない。家中評定の末、筆頭家老大石様がお決めになったこと。まこと憎きは大石であって多川らでは無いことは安井にも分かっている。

 安井には返す返すも後悔していることがある。あの時殿様のご意向を差し置いて吉良殿に相応の贈り物をしていれば……長矩が勅使御馳走役に選ばれた際、安井は吉良への贈り物について長矩に注意喚起した。伊達右京殿の贈り物に勝るとも劣らない贈り物をすべきである、と。しかし主君はその言を受け容れなかった。今日あるは、それゆえであろうか。あの時、もう少し違う贈り物をしていれば、結果は異なっていたのであろうか。そうであれば、江戸家老としての自分の落ち度である。国許の大石は殿様とお家をこのような事態に追い込んでしまった自分を責めるであろうか……自身の後悔が大石への反発心ともなり、同時に、過ぎたことへのどうしようもなさが自らを弁護し、その結果、責任論をあいまいにする。

 「まぁ良いわ。問題はこれをどのように処理するか……」

 大石からは小心者と評された安井である。このような大事を自分一人の一存で決することなどできようはずもない。当然誰かに相談すべく思案を進める。無論、相談できる相手はそうは居るまい。故長矩公の従兄弟、戸田釆女正様と、ご舎弟大学長広様。大学様は閉門中ではあるが、お知らせしない訳にもいくまい。

 「今より戸田様、大学様にご相談申し上げるゆえ、そちらはしばし待っておれ」


 安井は自ら戸田釆女正、大学長広の元に赴き、ことの次第を告げる。

 「ご公儀からは親類一同の責任においてきっと家中の騒動を鎮めるべしと仰せ付けられておる。ましてや吉良殿お仕置き、大学殿お取立ての儀歎願など公儀に対し畏れ多し。すみやかに城を明け渡し、家中騒動などおこさぬよう、この際改めて申し付ける」

 戸田釆女正は口上書を安井に手渡しきつく申し渡した上で、老中にもこれを届け出る。安井は安堵した。戸田様からの口上書があり、また、ご公儀からもお叱りを受ければ、国許の大石らも鎮まらざるを得まい。また仮に国許で何か落ち度があっても、これで自分にまで累が及ぶ心配はなくなった。まこと、多川、月岡の両名が我が元を訪ねたが幸いであろう。

 続けて大学長広の元を訪れる。安井から報せを聞いた長広は烈火の如く怒り出した。

 「このような歎願、今すぐやめさせるべし。儂は閉門中の身であると申すに、これではまるで儂の指図で動いているようなものではないか。家臣の分際でこれ以上儂や親類一同に累を及ぼすなど以ての外。早急に国許の大石らに伝えよ。これ以上騒動を起こすなど言語道断。これは主筋の命であると左様心得よ」

 恐れ入って平伏する安井であるがその実、我が意得たりの想いである。こうして戸田と長広から口上書を取り付けた安井が私邸に戻ると、戸田家から使者が着いており、ご公儀から改めて戸田に指図があった旨知らせてきた。安井はこれらの口上書を多川に差し渡して告げる。

 「多川九左衛門、月岡次右衛門の両名に告げる。只今より急ぎ国許へ戻り、大石殿以下家中の者にご公儀、戸田釆女正様、大学長広様の御意を伝えよ。決して騒ぐことなく、粛々とお城を明け渡すように、と。よいな」

 「はっ」


 こうして歎願使として江戸へ送られた多川、月岡の両名は何らその使命を果たすことなく、却って、家中評定で定めた歎願殉死路線を潰す結果を伴って、四月十一日に赤穂に帰り着くこととなる。

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