一七〇一年三月二十九日十八時 赤穂藩大石邸
上座に座した大石が、自筆署名した嘆願書を改めて読み上げる。歎願使に選ばれた多川九左衛門、月岡次右衛門の両名が下座に平伏したまま聞いている。やがて、嘆願書を読み終えた大石がそれをそっと折りたたむと、面を挙げた多川がこれを受け取り、懐にしまう。
大石が念を入れる口調で多川、月岡の両名を諭す。
「よいな。必ずこれをお目付荒木十左衛門様に直接お渡しすべし。よいな、直接である」
「はっ」
両名が平伏するのを確認して後、大石が続ける。
「間違っても、荒木様にお渡ししない前に江戸家老安井彦右衛門などには相談べからず。きっと申し付ける」
「はっ」
「さらば、江戸にはいつ到着できるか」
両名はしばし思案する。早川、萱野の両名は江戸から赤穂まで五日で戻ってきたという。
「我らも五日で江戸に登りましょう」
「うむ。しかし、あまりに汚い格好でお目付けにお目見えするのも赤穂の恥。さらば前日は品川宿にて身支度を整えた後、江戸入りをせよ」
「さらば四月五日に江戸入りし、荒木様に嘆願書をお渡し申し上げます」
「相分かった。必ず直接お届けするように。決して安井には相談するべからず」
「さらば、ただいまより」
両名が退出した後、大石は庭先に出て声をかける。
「聞いた通りである。歎願使の両名は本日赤穂を発ち、四月五日に江戸入りをする。江戸での両名の働き、陰ながら助力してやって欲しい」
庭木の蔭から若い女性の声がかえってくる。
「大石様の申される通りに。されど、なにゆえ安井様ではいけませぬので?」
「安井では……」
言葉を選びながら大石が答える。
「安井は、平素であらば能く仕事のできる家臣であるが、一朝有事とならば、慌てふためき冷静さを失う小心者よ。そのような輩がかような大事を知らば……」
「大事を知らば……?」
大石の言葉を歌留が繰り返すことで、次の言を引き出す。
「かような嘆願書など、あくまでお目付け様方のご好意ご配慮によりご公儀に披露されるべき筋のもの。もし直接ご老中様方にお見せするとならば……」
大石の意を察する歌留が後を続ける。
「この歎願は大学様からのご指示によるもの、とご公儀には受け取られましょう」
「左様。この嘆願は大学様お取立て無くばお城明け渡しならず、と言外に匂わせておる。かような歎願が大学様からのご指示とあらば、大学様お取立てなど望むべくもなかろうよ。さればこそ、お目付役様方から奏上して頂かねばことは成らぬ。されど……」
「安井様がこの嘆願書の存在を知らば、きっとご公儀を畏れて差し出してしまう……」
「後に何ゆえ届けなかったか、との叱責を回避するために……小心者の我が身可愛さゆえよ。尤も、平時にあらば安井の態度の方が正しかろうが……」
「そこで歌留がご両人をお見届けすればよろしいので……?」
「左様、両名は四月五日に江戸入りするとのこと。首尾よく両名が使命を果たすべく、歌留には助力をして欲しい。きっと、安井などには漏れぬ前に荒木様、榊原様にお願いするように」
「御意の通りに」
そう言い残して歌留が出て行く。伊賀でも一、二を争う忍びの者。恐らくは、歎願使の両名よりも歌留の方が先に江戸に着くことであろう。されば上手く段取りしてくれよう。春とは言えまだうすら寒い夜風に何かを感じて身震いし、大石は屋敷の中に戻っていった。