一七〇一年三月二十三日十三時 江戸城老中御用部屋
「さきほど、赤穂に放った忍びが復命したところによらば……」
老中首座土屋相模守が他の四人の老中に向けて報告する。
「赤穂藩筆頭家老大石某と接触することに成功したとのこと」
「ほぅ、それは流石に土屋殿、手際が早い」
最年長の稲葉丹後守が相槌を打ち、一同もそれに首肯する。
「して、どのような」
柔軟な発想の持ち主であり、此度の策の立案者でもある秋元但馬守が半身を乗り出しつつ先を促す。
「まず大石としては、開城、殉死、舎弟大学殿お取立ての嘆願の線で藩論をまとめるとのこと」
「なるほど、理と情のいずれにも適った良い筋書きではある。公儀に順じてまずは大人しく開城し、その上でお家再興を嘆願、自らは殉死することによって情を誘うか」
法家の阿部豊後守には、大石が理を解する者としてまずは安堵できた。尤も、殉死は幕法で禁ぜられてはいるのであるが……
「しかし、その線に従って殉死してしまっては、吉良を討てぬのでは……」
最年少にして文武両道の小笠原が問う。阿部の言う通り、まずは理と情に適った方法ではあるが、結果殉死してしまっては元も子もあるまい。
「そもそも、その大石と申すはどのような人物であろうか」
稲葉の当然の質問に土屋が答える。
「伊賀の長の見立てでは、平素は昼行灯なれどその実なかなかの切れ者とのこと」
「昼行灯とはなるほど……流石は土屋殿、なかなか操縦しがいのある仁を選ばれたもの」
双眸に煌きを蓄えた秋元が、心なしか嬉しそうに賛意を表する。秋元と同年齢の阿部は、秋元の笑みを横目に殊更慎重な口ぶりで話を継ぐ。
「まずは殉死という線であれば、死を恐れる輩を除くことはできよう。赤穂藩にもおよそ三百ほどの家臣はおろうが、その全てが吉良を討ちにいく必要はありますまい」
「左様、むしろ少数精鋭のほうがことは成就しやすかろう。あまり多勢ではことが漏れようし、万一にも三百の勢で街道を登り始めたら、流石に我らとしてはこれを鎮圧さざるを得まい。その意味では人員は厳選すべかろうし、その最初の篩い分けとして、殉死を踏み画にするはよい思案」
「兵家の小笠原殿にそこまで褒めらると、却って痛み入る。されど先に小笠原殿の申された通り、まこと殉死されては元も子もあるまい。そのあたりが思案のしどころ」
「先に嘆願書を……出させてはいかがであろうか」
何かを思いついたらしい秋元が、自らの考えをまとめるように口を開く。稲葉はそれと察して、敢えて急所を突くことで秋元の思考を促す。
「ほぅ。先に嘆願書を出さば結果が先に分かるというもの。されど、大学殿お取立てとならば吉良を討つ要はなくなろうし、逆にお取立てならずとならば、開城すら望めぬのではなかろうか」
「ではいっそ、大学殿お取立てを仄めかすか。お取立ての可能性ありとせば、まずは開城はしよう」
阿部がそれを展開させるが小笠原が急所を突く。
「いずれにしても順序が肝心。そもそもお取立てとならば稲葉殿の申されるよう本願は達せ得ぬ」
一同が思案に暮れているところに、声が挙がる。
「さよう、従ってやはり先に嘆願書よ」
秋元の、今度は断定的な物言いに、一同無言で先を促す。
「此度は、赤穂と江戸の時間的距離が要」
やがて秋元の策を聞き終えた一同は、半ばその策に同意を示しつつも、尚半ば疑念を抱えていた。その最大の懸案は。
「確かに秋元殿の思案は良い策だとは思われる。されど少し技巧的に過ぎるのではあるまいか。なかでもその人選が最重要であるが、これに役者を得るであろうか」
小笠原の冷静な分析である。策として筋は通っているが、人選を間違うと全ては水泡に帰す。ことは神君の遺言であれば、駄目で元々、なぞとは口が裂けても言えまい。
「うむ、小笠原殿のご懸念は尤もであるが、ここは一つ昼行灯殿の切れ者ぶりに賭けようではないか」
老中首座の結論に四人の老中も同意した。みなの首肯する様子を見て土屋は天井裏に声をかける。
「聞いておったな、軽。さらば秋元殿の策に従って大石を操縦せよ」
「承知っ」
声を落とした、しかしどことなく軽やかなくノ一の声が返ってくる。想像していた声音と異なる響きに一瞬戸惑った小笠原がつい口を開いて問う。
「此度は女子を?」
「さよう、あれで里では一、二を争う忍びとのことよ。恐らく此度の策では様々な局面が待っていようが、女子の方が使い勝手のよいこともあろうゆえ」
土屋の言に、少しにやついた表情をこちらに向けて稲葉が返す。
「ほぅ、そのような局面では是非某にも……なぁに、まだまだ槍働きもできますぞ。そうじゃ、一度お手合わせ願おうかのぅ、軽殿」
稲葉の、後の方は半ば吉原の馴染みが花魁を誘うような軽い口調に、これも多少艶めいた声音が返ってくる。
「稲葉様にはお戯れを……くノ一の筒には毒を秘しておるものと、左様お心おき下され」
稲葉と軽の軽妙なやり取りに先ほどまでの緊張が和らぐ。同時に、稲葉流の人事面接に、軽であればきっと大石を上手く操ることであろう、と一同は得心……つまり、秋元の策の採用が決定された。