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[完結(全47話)]神君の遺言 ~忠臣蔵異伝:幕閣から見た赤穂事件~  作者: 勅使河原 俊盛
第四章 赤穂評定
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一七〇一年三月十九日六時 赤穂藩大石邸

 「ご家老様」

 既に朝の支度を整え終えていた赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄の屋敷に、早打駕籠で江戸表を発った早水藤左ヱ門、萱野三平の両名が転がり込んできた。

 「ご家老様、急使にございます」

 大石は二人を通した書院の上座に座す。

 「大石様、急使にありますれば朝駆けのご無礼をお許しください」

 両名のあまりの疲労困憊ぶりは、只事ならぬ事態の発生を大石に想起させる。一瞬動悸が高鳴るが殊更つとめて冷静さを保ち、表面上は落ち着いた態度で応じる。

 「構わぬ。それよりもそなたらの困憊ぶり、よほど慌てて江戸表から参ったのであろう。役目大儀。まずは落ち着いて申せ」

 「はっ」

 早打駕籠に揺られて四昼夜半。殆ど眠ることも適わず、ましてや中途で休むことなく駆けつけてきた。殿様の、お家の一大事を逸早く国許に知らせるために。大石様はそのことの重要性を早速見抜いておられ、それにも関わらず我らを労う言葉をかけてくださった。早水は懐から口上書を取り出して報告する。


 「奉」

 「殿様、本日勅使勅答の儀につきご登城あそばされたところ、お城大廊下にて吉良上野介殿に切付けられ候。殿様は手傷を負いなさらずも吉良殿を討ち果たし申せず候」

 「勅使御馳走役は戸田能登守様がこれを仰せ付けられ候」

 「御目付近藤平八郎様以下、当屋敷にお出で候。殿様田村右京様へお預け、お屋敷引渡し、これ上意候由仰せ付けられ候」

 「戸田釆女正様、ご舎弟大学長広様、当屋敷にお出で候。家中騒動仕るべからざる由、仰せ付けられ候」

 「お家大事の時ゆえ、早水藤左ヱ門、萱野三平、両名を急使に遣わし言上奉り候。追って追伸仕るべく候」

 「三月十四日 大石内蔵助様」


 口上書を読み終えた早水は、そっとそれを折りたたみ直し、大石に手渡す。

 果たして、江戸城にて殿様が吉良殿に切り付け、殿様は田村右京様へお預け、赤穂藩江戸屋敷は引き払いを命じられたという。流石にそこまでの重大事とは想像していなかった大石は、一瞬返答に戸惑い生返事を返す。

 「うむ。まずは役目ご苦労」

 そして、口上書を再び開きながら、まずは問わずもがなのことを問う。

 「して、殿様へのお仕置きは如何なったであろうか」

 「恐れながら、我ら両名が江戸を発った時点ではそれ以上のことは……」

 そうであろう。もし分かっていれば、この口上書に書かれていたはずである。とは言え、いずれ死罪を免れ得ぬであろうし、お家はお取り潰しとなるが必定。いや、この口上書の日付は本日より五日前。恐らくは既にお仕置きが下っていよう。さらば、この赤穂にもすぐに公儀から正式な使者がやってくる。そうならない前に為すべきは……大石は既にその先のことを考えながら、続けてこれも問わずもがなのことを問う。

 「吉良殿へのお仕置きは如何に」

 「恐れながら、それも我らには……」

 「うむ、相分かった。まずは総登城にてこの一件、家中に伝えねばなるまい。そなたらも疲れているとは思うが引き続き登城するよう。さらば今はもう下がってよい」


 早水、萱野の両名が下がった後、思案を続けるために庭先に出た大石の視界の隅に蹲る者があった。

 「草か?」

 「はっ」

 大石の意に反し、帰ってきたのはまだ若い女性の、少しくぐもった声であった。

 「ほう、此度は女子に替わりおったか」

 「恐れながら此度の大事にあっては、女子の方が却って与しやすいか、と……」

 「それは伊賀の意向か?それとも……」

 伊賀者、いわゆる伊賀の忍者は雇い主、すなわち大名や旗本、時には幕閣や将軍の命に従って各地で情報収集し復命しているが、実際のところ雇い主と忍者の関係は直接の雇用関係ではない。伊賀の長がそれぞれの雇い主に対し配下の者を派遣しているというのが実態である。従って、派遣される忍者が長の意により入れ替わることはままあり得ることである。また同時に長が忍者の諜報網の頂点に立ち全ての情報を把握していることも暗黙の諒解である。つまり、伊賀者を使うということは、他家や幕閣の情報を探ると同時に当家の情報をこれらに知らせることにもなる、いわば諸刃の剣であることをも意味している。従って、大石にすれば此度の変更がどの辺りの意図から出ていることかを探ることは、既に情報収集の一端になっていると言える。

 「我が長の意にて……」

 無論、たとえ違っていてもこのくノ一はそのようにしか答えないであろう。しかし、その問いを発することそれ自身、またひとつの諜報である。

 「うむ、それではそういうことにしておこう。さて草よ、まずは名を聞いておこうか」

 「歌を留める、と書いて歌留とお呼びください」

 「ほう、これはなかなか、伊賀者にしては風流な名であることよ」

 思わぬ名乗りに只今の重大な状況を忘れ一瞬和みかけた大石の表情を、歌留と名乗ったくノ一の次の一句が現実に引き戻らせた。

 「歌留は故浅野内匠頭長矩公の辞世を大石様にお伝えすべく参上致しました」

 殿様の死出の歌を留めたがゆえの歌留……やがて歌留がゆっくりと、長矩の辞世を謳い始める。


 「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせむ」


 そうか、殿様は満開の桜の下で……さぞ美しい最期であったことよ……そう言えば、赤穂の桜はとうに散っておったが、江戸ではまだ咲いておったのであろうか。大石の脳裏を花嵐の中に佇む白装束の長矩が過ぎる。

 「殿様の最期は……」

 「それはもう、武士の鏡としてお見事な最期でありました」

 歌留、などと名乗ったのはいささか演出が過ぎたであろうか。しばしの間歌留は大石の感傷に付き合うことにしたが、静寂を大石の独言がやぶる。

 「春の名残……春の名残をいかにとかせむ……そう、お詠みになられたか……」

 「春の名残、に何か……?」

 春の名残とは、吉良家のことであろうか。殿様は吉良を討て、と遺されたのであろうか。大石はしばし黙考し、しかし口に出しては違うことを聞いた。

 「歌留、此度の件、いずれ家中に告げねばなるまい。殿様切腹とならばお城も明け渡さねばなるまいが、今後の対応としてどのような策があろうか?」

 「恐れながらご下問にあらば……私見では四案がおありか、と」

 「うむ、申してみよ」

 歌留は順を追って考えを陳べる。無論その考えは大石のそれと一致しているのであるが、敢えて歌留に口に出させることによって大石は自らの考えを整理している。

 「まずは、ご公儀の意に従って開城し、ご家中の方々はそれぞれ新たに別の仕官口を探す、という道がありましょう」

 太平の世になっておよそ百年。武士とは言えどもこの頃では死を恐れる者も多い。伝来の田畑があればそれを耕す者もあろうし、他家に仕官する者も出てくるであろう。およそ殿様のご遺志からはかけ離れているが、家中三百名の藩士がみな殿様と意を同じにすることもなかろう。

 「次に、ご舎弟大学様によるお家再興を求めてご公儀に嘆願するの道」

 家臣として主家に忠義を尽くすのであらば、最も正しい道と言えよう。大名家の家臣は大名個人ではなくお家に仕えている、と捉えれば、長矩公の無念よりもお家再興を第一に考えるべきである。しかし、恐らくはそう容易にことが運ぶとも思えず、中途で脱落する家臣は多かろう。大石のように多禄の者であれば平素の蓄えもあり、数年のお家再興活動をしてでも暮らしていけようが、微禄の者ではそうもいくまい。ましてや、叶わぬ場合にはどうするか。いずれ叶わぬならばいっそ……

 「続けて、開城を拒み城を枕に討ち死にす、あるいは開城と同時に切腹し主君に殉ずるの道」

 そう、武士の面目を立てるという個人的な名誉欲が勝れば、この道を選ぶことになろう。但し、死を前提にする以上、多くの家臣がこの道を選ぶとも思えない。更に言えば、殿様は家臣がこの道を選ぶことを最も望まぬであろう。武士道とは死ぬことと見つけたりとは言うものの、それはいわば死なない時代の武士の心構えであり、また統治の建前であろう。しかし現世においては、生きてあらばこそ果たし得る武士道というものを模索すべきやもしれぬ。

 そして、残る最後の道は恐らく殿様が望まれる、しかしながら最も困難な道……歌留も察しているのか、少しの間をおいて後口を開いた。

 「最後に、吉良殿を討ち、亡きご主君の無念を晴らす道」

 君辱められれば臣死す、と言う。家ではなく大名個人に忠誠を尽くすのであればこの道を選ぼう。大石のように累代の浅野家家臣であればお家第一を考える者も多いが、家中には長矩の代になってから仕官するようになった家臣もいる。そのような家臣であれば、この道を選びたくもなろう。しかし、よもや赤穂藩士総勢三百名で街道を江戸に向けて征くわけにはいくまい。そのような目立つやり方では途中で必ず反乱軍として幕府軍に鎮圧されよう。されば吉良家江戸藩邸に奇襲討ち入り……流石に吉良家でも充分に警戒していようし、また、家中を挙げて討ち入らんとせば、必ずどこぞから情報が漏れよう。この策は情報統制が最も肝要。更には、吉良殿は既に高齢、国許に隠居でもしてしまえば最早討ち入る機会もなくなるゆえ、その時宜を得ることも重要。

 「大石様には、どの道をお選びになられますか?」

 個人の暮らし、主家への忠義、武士の名誉、主君への忠誠。武士として、人として、どの態度に最も価値を見出すべきであろうか。三百家臣が心を一にして藩論をまとめることなど、そもそも叶うものであろうか。悩みながら大石は歌留に問う。

 「歌留であらば、どの道を選ぶ」

 「恐れながら歌留は武士にはありませぬゆえ、大石様やご家中のみなさまとは比べるべくもございませぬ。されど、見事にお城明け渡しなされ大学様お家再興の嘆願を奏上の後、長矩公の後を追い以ってお覚悟をお示しになるの道にあらば、武士の面目と主家への忠義を両立させるのが適うのではないか、と」

 「うむ、まずはそんなところであろうか」

 ちょっと性急に話を進め過ぎたであろうか。歌留は少し不安を覚えた。三百藩士の内には弱腰の者も多数おろう。まずはこれを排除すべく、一旦は大石に殉死の方向で藩論をまとめさせる必要があった。しかし、本当に殉死されては吉良を討てなくなる。大石の頭に若干の保留を残すために、歌留は敢えて条件を提示してみせる。

 「されど、大学様お家再興が叶わぬ場合には……」

 「うむ、よいところに気がついた。左様、そこが思案のしどころ……さらば歌留には一度江戸に下り、ご公儀における大学様お取立ての可能性について探ってきてもらいたい。藩論は一旦、開城、嘆願、殉死の線でまとめておくゆえ……」

 「それでは早速」

 歌留は少し安堵した。兎に角は当面の目的、すなわち大石と連絡を取り公儀と大石との共闘を開始することは達成したと言えよう。ところでその大石の反応はどうであろう。ずっと黙り込んで考えている様子は確かに昼行灯のようもである。検討課題と対策、当面の方針の全てについて大石は、歌留が指摘したことについて賛意を示しただけであった。昼に点す行灯はあってもなくても同じこと。まこと、ただいまの大石の反応は綽名の如くである。大石は世評通りの愚鈍な人物なのであろうか。歌留がそのように思案しながら退出しかけたところ、背中から声がかかった。

 「それと藩札のことであるが、これは早い内に調べ、できる限り早く交換しておくこととしよう。藩札なぞのことでいたずらに領内が騒いでも面白くないであろうゆえ」

 この時代、三百諸侯と言われた大名家には、それぞれ自分の領内だけで通用する通貨として藩札を発行している者が多く、例に漏れず赤穂藩も藩札を刷って流通させていた。藩札の価値は藩が保証するのが建前だが、お家お取り潰しとなればその藩札を保証する者は誰もいなくなり、結果として藩札はただの紙切れになる。実際、過去にもしばしば、改易された大名の領地で藩札をめぐる領民の暴動が発生した例がある。大石の指摘したのは、そうならない前に藩札を回収して領民の暴動を予防する、ということであった。

 「はっ」

 と一言だけ返して歌留はその場を去った。最後の一言は何であろう。大石という人物は、主君切腹の報という常人であれば冷静な判断を妨げられるような状況下でも、なお領内の経済と治安を心配できるだけの慧眼の持ち主であるというのか。いずれにしてもこれは、老中土屋相模様にご報告すべき事柄に属するであろう。


 この後大石は札座奉行の岡嶋八十右衛門を呼び、藩札の発行高並びに藩庫に備蓄する銀の調査を命じた。

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