一六一六年四月 駿府城
「儂もそう永くはあるまい……」
「何を申されます、大御所様……」
大御所様と呼ばれた男。徳川二百七十年余の礎を築き、後に神君と呼ばれることになるその老人は、かつて何万もの大軍を指揮した者の音声とは思えぬような途切れ途切れの、しかしながら一言一言力を込めた口調で続ける。
「よいか、正純。これは儂の遺言じゃ。ゆめ忘れぬよう」
「はっ!」
「儂の目の黒いうちは良いがな……儂が死なば必ずや太閤恩顧の大名どもは徳川に反旗を翻すであろう。左様ならぬ前に、これらの大名を潰すのじゃ。ひとつひとつ、な……」
「ひとつひとつ……」
本多正純が今の地位にあるのは、何も父正信の引き立てがあるからだけではない。一昨年の陣にあっても、大坂方との折衝や堀埋め立てに功があった。大御所の懐刀として、特に謀略面における智謀と胆力に優れているからこそ、その死の床にあって最期の策謀を託されるのである。
「福島、加藤……」
豊臣恩顧の大名達の名を順にあげ、正純が得心した面持ちでいちいち頷くのを確認した後、少し間をおいて老人は奇妙な名を挙げた。
「それに……吉良じゃ」
「吉良……あの高家の、吉良に御座いますか?」
聡明な正純にさえ、大御所の意図が俄かには判りかねた。福島や加藤は判る。彼らは太閤秀吉子飼いの大名。大坂の陣では徳川方に味方したとは言え、いつ何時、次はこちらに弓を向けるとも限らぬ。それらの勢が揃わぬ前に、ひとつひとつ各個撃破するのは、徳川の世を長らしめるには当然の策であろう。しかし、吉良とは……。高家筆頭とは言え、たかだか千五百石の旗本に過ぎぬ。足利一門という出自の良さを誇りはするが、武将としての功は少なく、今では朝廷との橋渡しをするに過ぎぬ存在。それを、遺言までして滅せよという老人の真意を、正純は図りかねた。
「吉良はのぅ……」
怪訝そうな表情の正純を見やって、悪戯っ子のように目をまるく見開いて続ける。
「吉良は、三河以来の仇敵よ。吉良は家柄の良さを誇るがあまり、世が足利から徳川に移ったことを、未だに理解しておらぬ。足利の世など、とうに信長公が滅ぼしたと申すに」
ようやく正純にも理解できた気がした。
「徳川の世を認めぬ者どもを討て、との仰せにありましょうや」
しかしながら、老人は子供っぽい笑みをますます浮かべてこう言った。
「福島や加藤については、のぅ。されど、吉良は……儂個人の恨みよ。六歳の時分に今川に人質となってより六十余年、儂はこの恨みを忘れることはできぬ。三河の地は松平のもの。それを吉良奴は好きように……」
吉良も今川も、足利一門の名族である。彼はわずか六歳で居城岡崎を離れ、今川の人質となった。岡崎城は今川の代官に差し押さえられ、その支配地は矢作川下流を地盤とする吉良家に蹂躙された。田楽狭間で今川義元が討たれた後、吉良も一度は降伏したが。
「一向一揆の折に……」
十八の時に岡崎へ戻ってより三年、三河の地では一向宗の門徒による一揆が発生した。正純の父正信をはじめとした松平重代の家臣をも二分する国内の騒乱を治めるのに、未だ松平の姓を名乗っていた若き日の大御所は相当な苦汁を飲まされた。
「一揆の折には父正信も大御所様に弓を向ける真似を……」
老人は今でも、一揆の陰の首謀者は吉良であったと信じている。吉良は一揆に乗じて国内を混乱させ、松平の領地である三河を我が物にしようと企んだのであろう。松平を制すのに、己が武を用いるのではなく同士討ちをさせるとは、卑劣巧妙なる吉良のやり口よ。証拠は無い。しかし、そうとでも信じねば、一度は背くも後に帰参した正信たちを、心の底から信ずることなどできなかったであろう。そして、臣下を信ずることの適わぬ将に、天下を取ることは叶わなかったであろう。だが彼はそのような心中を表には出さず、言葉としてはただこうとだけ続けた。
「帰参してからの正信、正純の働きを、儂はよぅ知っておる。一度は弓を向けたからこその働きぶり、儂はそなたら父子を厚く遇しているつもりじゃ」
「かたじけないお言葉。我が末代までの誉れに致します」
「うむ、されど吉良は……」
しばしの静寂が二人を包む。
「よいな、正純。必ず吉良を討て。これは儂の遺言じゃ。老中のみにこれを伝え、幾世かかったとしても、必ずこれを果たせ」
「はっ、必ずや大御所様の御意を果たしてご覧に入れます」
今度は得心した表情で真っ直ぐこちらを見据える正純を見、老人はそっと目を瞑る……
「畏れながら」
再び室内が静寂に包まれた様子を察し、奥小姓が室外から声をかけた。
「将軍家名代浅野釆女正長重様、大御所様お見舞いに登られた由」
「うむ、通すがよい」
家康の短い返事を謀議の終了と解した正純は、軽く低頭してから座を離れた。