煙のない香炉
――コチ、コチ、コチ、コチ、カッ、コチ、コチ、コチ......
部屋の壁掛け時計の秒針が、時々長針が、コチコチカッと時を刻んでいる。そこに、シャーペンの芯と、A4のレポート用紙の擦れる音が混ざり合う。ペンを持つ左手の動きが、緩慢になっていく。
......ヨコ、タテ、ヨコヨコ、マル。カッ、コロン。
シャーペンは木の机の上に転がって、乾いた音を鳴らした。再び、時計の針の音で空間が支配される。座ったままでいるのがもどかしくなって、ゴロゴロと事務椅子を後ろに引いて立ち上がる。それに呼応するようにカーテンがゆらめく。ヒンヤリとした空気を足元に感じた。
部屋を見回してみると、床に散らばった菓子の包装、鼻をかんだティッシュなどが目につく。それらを拾い集め、もう少しで溢れそうなゴミ箱にギュッと押し込む。
ベッドの縁に座って、ピアノ椅子の上に積み重なった本の山を探った。一番底から、カフカの「変身」を引っ張り出す。ベッドに寝転んで、最初のページから読み始める。
読んだところを指で挟んでパタンと閉じた。しばらく目を瞑って、やがて深い息を吐く。栞代わりに空の茶封筒を本に挟んで、本の山に戻す。トイレにでも行こうかと、目眩を覚えながら起き上がった。
ドアノブに手を重ねて少し回す。すると、まだ押してもいないドアが、勢いよく壁に当たってガタンと跳ね返った。
「うわ」と思わず声を漏らした。部屋の窓を開放していると、時々こういうことが起きるのは知っていた。単に、予想していなかっただけだ。理由までは分からない。ドアの向こう側とこちら側で、ほんのわずかな気圧差が生まれているとか、そんなところだろう。
部屋は、玄関の吹き抜けのところで、二階にある。明かりをつけずに——というのも、昔玄関で飼っていたミドリガメを起こさないように、変な配慮していた時の名残で——その暗闇の中を、階段を、一段一段踏んで下りていく。白いビニルの壁紙の凸凹を手のひらで擦っていく。階段の中腹に差し掛かると、壁の穴に手が重なった。構わず下って、最後の一段を踏み終えた。
瞬間、線香の香りが奥の部屋から、戸襖を通り越して漂ってきた。思わず顔をしかめた。ここ最近、その不快な匂いが度々陰鬱な気分を生み出し、心をかき乱している。それを思うと、自然にため息が唇の隙間から溢れ出す。溢れる息をなげやりに出し切ると、その空気が語りかけてきた。
『お前は何てひどいやつだ』
トイレに向かう。扉を開けると、すでに自動でLEDが光っている。これは、最近の家庭内改革のうちの一つだ。これはこれで便利だったが、どうも気に入らなかった。以前は夜中にトイレに行くのも眩しくなくてよかったのに、これでは夜中でも強制的に目が冴えてしまう。父親は、電球を新しく付け替える際に、トイレの照明のスイッチをも取り払ってしまった。しかしそういう不満を、文句という形にするのは億劫だった。
用を足して、レバーを小にひねると、水が軽快に流れていく。手を洗って拭こうとタオルを見ると、これは三日以上前から変わってないような気がした。やむなく指先だけズボンで拭く。その指で鍵を回して、ドアを開いた。
それから、腹が空いている訳でもないのに台所を物色する。籠の中に入った菓子を確認したり、冷蔵庫の一番上を開けたりするが、やはり何も食べる気がない。シンクの上の照明の鈍く光っている方に目をやると、蝿が飛んでいる。そのまま階段の方に足を運んだ。
階段に差し掛かると、またあの匂いだ。線香を焚いたのは父親だろうか、それとも弟だろうか。確証はないが、多分弟だろう。しかし今更何になると思っているのだろう。取り繕ったところで、結局あいつも同類だ。
奥の部屋に人の気配はしない。どうなっているのか確かめてやろうという気になったので、畳の部屋に通じる戸襖をガラガラと開ける。線香の匂いが更にきつくなるのを感じた。
蛍光灯のツマミをカチカチ引っ張る。点かないので、もう一度カチッと引く。二秒ほど経ってから、ナツメ灯が橙色の光を発する。気を取り直してカチカチと引っ張る。一度暗くなってから、今度はちゃんと蛍光灯が光った。蛍光灯はチラチラ瞬いて、寿命が近づいたのを訴えている。
畳の部屋には、横長の机と、その前に座布団が置いてある。机の上には、見栄えの良さげな造花の入った花瓶が二つ。それに挟まれて、L判の額縁が置かれている。額縁には顔写真が入れられている。抹茶味のチョコやみかんゼリー、缶コーヒーなどがある。その前には、線香の箱や百均ライター、鈴や香炉が並んでいる。香炉は仏壇用の白い陶器製のもので、こぢんまりとしている。よく見ると、煙が上がっていない。
不審に思って、香炉の中の様子を伺ってみる。しかし陰になって見辛い。目をこらすと、香炉灰に紛れ、冷え切った燃えカスだけがとっ散らかっていた。
相変わらず、線香を焚く匂いがその部屋に充満している。ただ、線香を焚く匂いが、思考を埋め尽くす。
そろそろと後ろ歩きをして、畳の部屋から出た。引き戸を閉め、足早に吹き抜けに戻り、明かりをつける。垂れ下がった電球の光が、白く眩しい。階段の一段目に足をかけようとすると、あの空気が語りかけてきた。
『お前は何てひどいやつだ』