93.変哲
「ヴィオレット様……!」
「ロゼット、様?」
いつも通りの時間に家を出て、登校時間のピークよりほんの少し早くに到着した玄関口で、美しく佇んでいた人影があった。珍しいと思ったのも一瞬で、こちらに視線を向けた彼女はヴィオレットを見つけるとすぐにこちらへと駆け寄ってくる。
「おはようございます」
「おは、よう……ではなくて、どうしてここに」
困惑と混乱で何も言えなくなってしまったヴィオレットに反して、ロゼットは落ち着きを崩さない。いつも通り温和な笑顔で、揃ったつま先も鞄を持つ手の形まで完璧だ。
この時間帯に人が少ない事を、ヴィオレットはよく知っている。むしろそれもあってこの時間をわざわざ選んでいるくらいだ。人の居ない教室は、腫れ物扱いされる事もさせる事もない。好奇の視線もない。人の顔色、声に、気を張らなくていい。あの家よりもずっと過ごしやすい場所、時間帯だ。
ロゼットの登校時間は把握していないけれど、今日が平常でない事は察する事が出来る。同じ玄関を使いながら、今まで鉢合わせなかったのだから。
つまり彼女は、何かしらの目的を持って、今日この時間を選んだという事で。
「お待ちしていたんです、ヴィオレット様を」
「私……?」
何か急ぎの用事でもあるのか。そうでなければ、わざわざ登校してすぐを待ったりはしないだろう。休み時間にクラスを訪ねれば済む話なのだから。
だとするなら、その用とは何なのか。欠片も思い当たらず、首を傾げたヴィオレットに……その表情に、ロゼットの肩が僅かに下がる。
「昨日、様子がおかしかったので……体調を崩されたのかもしれないって」
「あ……」
唐突に思い出す、昨日の記憶。何故忘れていたのか、自覚した全てが強烈だったせいだ。明らかに取り乱していたヴィオレットに、ロゼットはどんな反応をしていたのか。そこまでは思い出せなかった、というか、きっとあの時の自分は何も見えていなかった。
ただ心配をする彼女に、大丈夫だと返した気はする。そのやり取りだけは知っているけれど、ロゼットがどんな顔をしていたのかは、覚えていない。
「もしかしたら今日はお休みされるかもと思ったら、気になってしまって。早退はしていないと聞きましたけど、夜になると悪化した、なんて話も聞きますから」
「それで、こんな時間に?」
「ま、待ち伏せみたいで気持ち悪いかとは思ったんですが……!」
気まずそうにそらされた視線は、落ち着きなく泳いでいる。さっきまでとは立場が逆転して、今度はヴィオレットの方が彼女を冷静に見る番だった。恥ずかしいのか、白い肌はピンク色に色付いて、唇をきつく結んでいる表情までも可愛らしい。
「…………」
「え、っと……あの、すみま、せ」
「ふ……っ」
「え?」
「ふふっ、ふ」
黙り込んだヴィオレットに、ロゼットの表情が羞恥から変化する。不快にさせたのか、嫌われたのかと、抱いている不安がくっきりと浮かんだ姿で、謝罪が言い切られるよりも早く、ヴィオレットの心が溢れ出した。
「ん、ふふ……っ、ご、め、っはは」
響く笑い声、口元を押さえたって意味は無く、顔をそらしてもその横顔にはっきりと笑みの存在があって。瞠目したまま事態を飲み込めていないロゼットに、ゆっくりと沈静化された笑いの最後。
ヴィオレットはその紫色を見つめて、言う。文章の、単語の、言葉の一つ一つを大切に、正しく、届く様に。
「ありがとう……凄く、嬉しい」
「ぁ……、はっ、はい!」
世界は変わらない。昨日も今日も、明日もその先もずっと。
だから、ただ、思っただけだ。変哲のない時の中で、ふと、気が付いただけ。
──こんなにも優しい時間が、自分にもあるのだと。




