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91.パンドラ


 思い返せば、ヴィオレットの美しい感情の先には、いつだってユランがいた。泥で出来た水溜まりに沈んでいても、決して輝きを失わない物。表面が汚れる事はあっても、拭ってしまえば綺麗になる様な、そういう存在。どれだけ欲に狂っていても、ユランが大切である事実が曇った事はない。


 あまりにも繊細で、大切で、当然の様にあった想いだから。

 今の今まで、その想いの種類を確かめもしなかった。


 何の見返りもなく、何の打算もなく、ただ想っているだけで幸せな相手。無償の感情には何の欲もなく、笑ってさえいてくれればそれだけで満足だった。だからこそ、名前を付けたがらなかったのかも知れない。湧き出る感情の出処なんて、知らなくて良かった。分類さえしなければ、ただ唯一の人としてずっと大切に出来ると思っていたから。


「……落ち着かれましたか?」


「えぇ……ありがとう」


 手渡された、マリン特製のホットミルク。温かいけれど熱くはなくて、猫舌のヴィオレットでもゆっくり飲み進められるくらいの温度。甘く優しく、疲れた時、心が潰れそうな時、必ず傍らにあった味だ。

 頭の先から指先まで、体中に開いた穴を埋めていく様に、舌先からマリンの思いやりが駆け巡ってく。ヴィオレットの味覚も触覚も、五感までもを知り尽くしているからだろう。この甘さに身を浸して眠る日は、何処までも深く深く沈んでいける様な気がした。浮き上がる事のない眠りは夢さえ見ずにいられるから。


「はぁ……」


 一口、喉を温かい液体が滑ってく。きっと多くの人には生温いと感じるそれが、ヴィオレットにとっては丁度良い。溢れたため息は辛いからではなく安堵で。全てをぶちまけた先には絶望しかないと思っていたけれど、晴れた視界では見えなかった物が見えてくるらしい。


「少しお休みになってください。夕食はお運びしますから」


「夕食は、」

「少なめにしておきますね」


「……ありがとう」


 人はリラックス状態になるとお腹が空いたり、眠くなったりするらしい。どうやらヴィオレットは後者のタイプだった様で、徐々に温まっていく体温が脳までもをふやかしている様だ。ここ最近の睡眠の質と、今日の精神的な疲れも手伝って、瞼は今にも糸が切れて伏してしまいそう。眠りに落ちる前にと、カップをテーブルに置いて、覚束ない足取りでベッドに向かった。

 視界に入る全てがほんのり歪んで、ふわふわとした感覚が心地良い。力の抜けた体が倒れ込むと、羽毛の様な柔らかさに包まれたから、きっと目的地にはたどり着いたのだろう。

 人の気配が近付いて、遠ざかるのを感じながら、段々と光を認識しなくなって行くのが分かる。誘われるまま、その重みに身を委ねた。 


 蓋は壊れてしまった。隠す場所も、なくなってしまった。もうきっと何処に追いやった所で、ヴィレットはこの想いを見つけるだろう。見つけて、抱えて、愛でてしまうのだと思う。忘れる事も出来ず、捨てる事なんて、絶対に出来ない。


 愛情、独占欲、羨望憧憬、沢山の感情が詰まったパンドラの箱の中でただ一つ。


 ──『希望』だけは、最後まで見当たりはしなかった。

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