89.誰か嘘という肯定を
柔らかく包み込む様な、マリンの声が降ってくる。ゆっくりと、子供の睡魔を増幅させる時の様に、背中を撫でる手が心地良い。平均よりも低いだろうマリンの体温に温もりを見出すのは、それだけヴィオレット自身が冷えているという事なのだろう。外の気温はむしろ上昇傾向にあるというのに。
自分よりも少しだけ高いマリンの肩に額を押し付けて、まとまらない思考をなんとか言語化出来る様に考えを巡らせた。でも口を開く度、出るのはただの二酸化炭素。
言葉にすれば、事実が輪郭を得てしまう気がして。
「まり、マリン……私、わたし、は」
舌がもつれて文章が上手く繋げない。何かが頭の中で爆発して、縋り付かなきゃ立っていられなかった。感情に任せて行動はしたけれど、この先をどうすれば良いのかが分からない。
泣き喚けばいいのか。纏まらないなりに説明して、何か助言を求めるのか。ただ感情のままにぶちまけて、自分を肯定して貰えれば楽になれるのか。
きっと前までのヴィオレットなら、三番目を選んでいただろう。悲劇のヒロインである事だけが唯一の慰めだったから、ただ、自分の味方になるという頷きさえあればそれで充分で。同情でも、哀れみでも、何だっていい。ただヴィオレットは悪くないのだと、己に言い聞かせる為の材料が欲しかった。
でも今は。今、自分が求めているのは。
「ヴィオレット様、落ち着いて。ゆっくりで大丈夫ですから──」
「ちが、違う、こんなのちがう……っ」
マリンは、完全に取り乱しているヴィオレットを何とかして宥める為、少しの隙間を作り目を合わせ様と試みる。それでもヴィオレットの眼球は、瞬きも忘れて彷徨うばかりで。
脳が沸騰した様に熱を持ち、目の奥までも侵食される。茹だる様な温度の中、手と心臓だけがどんどん冷たくなっていって。熱くて冷たくて、暑くて寒くて。感情と理性が乖離する。本心で繋がっているべき二つが、真逆の方向を向いて叫んでいる。
どちらかが嘘なら良かったのに。どちらかだけでも嘘だったなら、捨てる事も、割り切る事も出来たのに。どちらも本心で、だからこそ、抱えきれない。
「私が、ユランを好きになるなんて」
あり得ないと、気の迷いだと、全ては独占欲が見せた幻だと。
お願いだから、誰か、この想いを否定して。
「間違いなの、こんなのぜんぶ、全部違う」
愛を乞い、飢え、渇くだけが恋であるはずだ。事実ヴィオレットの周りに積み上がる恋物語は、どれもそうやって悲劇の終幕を迎えている。
クローディアへの想いは、恋とはまた違う。ヴィオレットが求めたのはクローディアの後ろにある幸せへの階段で、彼本人に愛を願っていた訳ではない。クローディアではなく、ただ一人ではなく、数多の人に愛されたかったのだから。誰でも良かった、どんな形でも良かった、歪んでいても穢れていても、そこにヴィオレットへの想いがあるならその全てを飲み込めた。愛の反対が無関心であるなら、関心は全て、愛に変換出来るはずだから。
ヴィオレットの知る唯一の恋は、暗く深く、どこまでも重い鉛の様な。ただ一人の為に娘も、自分の命ですら費やせる様な、周囲の涙を養分に花咲かせようとする欲求。欲に輝く女の顔、失望と絶望と憎悪と嫌悪を凝縮した母の顔、床に臥しうわ言の様に夫を求める妻の顔。ベルローズの姿こそが、ヴィオレットにとって恋の象徴で。
「いや、嫌なの……ッ、嫌、っ」
始まりは、悦びに浸る母の顔。両手でヴィオレットの頬を包み、うっとりと父の名を呼んだ。言葉を認識するだけの頭脳も、私はヴィオレットなのだと主張する自我さえなかったのは幸か不幸か。ただギラギラと光る鮮血の様な瞳が恐ろしかった事だけは今でも覚えている。
そのすぐ後から始まった教育は、ある意味厳しくある意味で甘かった。父と同じ道を通る事には恐ろしく精密だったが、令嬢としてはどれだけ落第点であろうと構わなかったから。外で走り回っても、木に登っても、怪我や日焼けにさえ気を付ければ母はいつも上機嫌で。男の子の様に振る舞う娘に、違和感を抱いた事などないだろう。むしろ娘が女になる事へ違和感を抱いて、これは偽物だと捨てる様な人だったのだから。
母にとって、ヴィオレットは恋の贄だ。いや、贄にする為に、産んだのだ。ただ残念な事に父は贄を欲さず、残酷な事にヴィオレッ卜は贄以上の価値を持っていた。そして出来上がったのは出来損ないの偽物で、作り上げたのは狂った女で、その全てはただ一途な恋の為で。
だから今、自分が抱える想いが、恋であるはずがない。
恋であっては、困る、のに。
「どうして、こんなに嬉しいの……?」
こんなにも大切にしたくなる、尊さに泣きたくなる感情が、恋であるはずないのだと、言って。




