表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/253

88.欠片の不安

 その後のヴィオレットは、使い物にならなかったと言っていい。

 半分以上残っていた昼食には手を付けず、楽しみにしていたデザートにも頼まず。挙動不審というか、不安定というか、兎に角落ち着きがなくてロゼットを心配させた。

 大丈夫だと答えてはいたが、それが本心でない事なんて、短い交流しかないロゼットにも気付かれていただろう。とはいえ、ヴィオレットの方も言葉に出来る気持ちはなくて。ただお互い、核心を付かず、上辺を撫でる様な会話しか出来なかった。

 大丈夫だと言うヴィオレットの言葉を信じ、心配そうなロゼットから視線をそらして。


 ヴィオレットはただ、突き付けられた現実をどうすればいいのか……この想いの処理方法だけを、考えていた。



× × × ×



 自分に関心を持たない家族を持った事に、生まれて始めて利点を見出だした。苦しい時辛い時、悩んだ時に放っておいて貰える。利点の万倍、理不尽を押し付けられているので感謝はしないが、不安定な所を粉になるまで踏み潰されるよりはまだマシだと思う。そう思わなければやっていられない。

 慌てた様子で帰宅したヴィオレットに気付く事もなく、そのまま自室にこもったって訪ねても来ない。メアリージュンがまだ帰っていなくて助かった。唯一ヴィオレットの異変に気付きそうな彼女は、気付いて、ヴィオレットを追い込むしか出来ないのだから。


「おかえりなさいませ、ヴィオレット様」


 部屋に入って来たヴィオレットを、片付けに来ていたマリンが出迎える。俯いたまま後ろ手で扉を閉めた主に、マリンは訝しげな視線を向けた。いつもより早い帰宅もそうだが、緩慢な動作で足取りも覚束ない様に見える。この家で元気一杯なヴィオレットも違和感しかないけれど、だからといって今の様に目に見えて何かが沈んでいる姿も珍しいのだ。抱え込み抑え込み、爆発するまで耐えてしまう人だから。


「何か──」


 ありましたか? そう続くはずだった言葉は、覆い被さる様に視界を満たした灰色に遮られた。マリンの腕にあったシーツが音を立てて床に落ちて、距離を失くした体温が縋り付く。マリンの肩に額を押し付けて、背中に回った両手は服にシワをつけているだろう。

 一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。咄嗟に受け止めはしたが、それ以上の事は何も思い付かなくて。ただマリンよりも少し低い位置にある頭を見下ろして、固まるだけが精一杯。


 縋り付くヴィオレットの背に、手を回す事すら思い付かないくらい、混乱していた。


「ヴィオレット、様……?」


 こんな風に、彼女に触れられた事はない。

 触れた事はある。慈しむ様に、労る様に、その心を癒やしたくて世話を焼いてきた。同じ様にヴィオレットも、マリンの働きへの感謝を、自分の為に心を痛める姿への慰めを、その美しい手に乗せて髪を頬を撫でてくれた。でも決して、それ以上近くには行かなかった……行けなかった。

 出来る事なら、いつだって抱き締めて温めて、この胸で泣かせてあげたい。悪夢に怯え、自らを抱き締め眠るなんてさせたくない。凍える背中に、この体温を分け与えられたらどんなに良いか。この腕が、ヴィオレットの加護になれたならと、願っていたのに。


(そう、か……私は)


 彼女を──ヴィオレットを抱き締める事が、恐ろしかったのか。


 思い出すのは、まだ幼いヴィオレットを抱き締め笑う女の姿。恍惚とした女とは対極に、生気の感じられぬヴィオレット。愛していると毒を吐き、娘を殺していく母親の光景。

 自分と同じ真っ赤な目が悍ましく光り輝いていた、悪夢の現実。

 

(あんな物に、自分を重ねていたなんて)


 母親と同じ、だけど違うマリンの瞳を、美しいと言ってくれたのは他ならぬヴィオレットなのに。あの時のあの言葉がマリンの人生を大きく変えて、ヴィオレットという存在が、心の中心に息づいた。


(……だからこそ、か)


 小さな種が芽を出し、花開いたからこそ、別の感情も芽吹いてしまった。ヴィオレットを大切に思えば思うほど、彼女が褒めてくれたこの目が、やっと好きになれたはずの赤い色が、どうしようもなく不安で仕方なくなる。夢にまで見るあの日の光景が、頭から離れなくなる。

 力の抜けた両腕、焦点の合わない視線、感情を失った声色。生きる事を放棄したあの日のヴィオレット。もしも自分が抱き締めた時、あんな表情で、あんな声で、名前を呼ばれてしまったら。想像するだけで心が千切れてしまいそうで。


 ゆっくりと、その背中に手を置いた。朝触れたばかりの髪が指先に絡まり、柔らかな質感を確かめる様に何度も何度も表面をなぞると、生者の暖かさが全身から伝わってくる。この人は生きている。愛する我が主は、この腕の中でも変わらず息をしてくれる。

 それだけで、息苦しい程の不安が、欠片も残さず溶けていく。壁だと思っていた障害はだたの霧で、塞がれていたのではなく、踏み出す事が出来なかっただけ。所詮は心が見せた幻覚で、そこにヴィオレットの本心なんて一滴も混ざってはいない。


 少なくとも今、彼女は自分に縋っている。想いを持ち、何かを求め、マリンを必要としている。

 ならば、自分がすべき事はただ一つ。もう何も、躊躇う理由はない。 


「──どうされたのですか、ヴィオレット様」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ