84.理想の人
予鈴がなるまで項垂れていたヴィオレットに、ロゼットは何も聞かなかった。ただ大丈夫かと問うて、大丈夫とごめんなさいで答えたら、なら良いのだと、安心した様に笑うだけ。
優しさと押し付けの境界を分かっている人なのだろう。人によっては強引にでも内に入って来てくれる方がいいのかも知れないが、何一つ言語化出来ないヴィオレットにとっては、ロゼットの距離感が有り難かった。
「ごめんなさい、ロゼット様」
まともに話したのは今日が初めてだというのに、あんな姿を見せてしまうなんて……いつものヴィオレットならあり得ない事だ。想いの種がユランだった事で冷静さを保てなかったのも一因だが、思った以上に彼女と自分の立ち位置が似ていた事が一番の要因だろう。
共感が返って来る事の心地好さに、つい心を開き過ぎてしまった。
ヴィオレットも、ロゼットも、きっと少数派だ。理想の中でも現実でも、同じ重みを感じて生活する、数少ない同士の様なもの。
だからって、勝手に何もかも分かってもらえる、理解出来るはずだと思うのは、ロゼットに理想を見る者達と何も変わらない。
「驚かせたでしょう? 忘れてくださいな」
「気になさらないで下さい。それに……昨日は私が驚かせてしまいましたから、お互い様です」
印象と違う秘密を知られる事と、突然項垂れる事ではかなりの差があると思うが……分かった上で言ってくれているのだろう。ヴィオレットを気遣ってなのか、本心なのかは分からないが、ロゼットが優しい事は短い交流時間でも理解出来たから。
弱った姿を嘲笑う事も、煩わしいと表情を歪める事も、好奇心で根掘り葉掘り理由を尋ねてくる事も。
甘えるなと、叱責される事もなく、許される事が嬉しい。
「では、そろそろ戻りましょうか。予鈴も鳴ってしまいましたから、あまり時間もありませんし」
本鈴が鳴るまでに戻らなくては遅刻になってしまう。それは、良い噂のないヴィオレットにとっても、理想を抱かれているロゼットにとっても避けたい。
何よりこの学園では、連絡なく姿の見えない生徒に対して、それはもう尋常ではない捜索隊が出動する危険性がある。王族貴族、あらゆる要人の子息令嬢が通うのだから、当然といえば当然の警備体制だが……わずか数分の遅効ですら学内がザワつくなんて、当人からすると窮屈でしかない。
教室までの道のりは、同級生であればほとんど変わらない。階層の括りを取っ払ってしまえば、学年問わず同じ一角に集まっている。といっても広すぎる学園ではその一角が恐ろしく広い範囲を指すのだけれど。
同じ歩調でその一角を目指していたヴィオレットは、そこでようやくある疑問を抱いた。
「そういえば……ロゼット様は私のクラスを知っていたのね」
色々と焦っていた事、驚いた事ですっかり忘れていたが、きちんと自己紹介もしていない相手のクラスを知っているものだろうか。少なくとも、ヴィオレットはクラスメイトですらあやふやだ。さすがにロゼットが同じクラスでない事は前々から知っていたけれど、だからといって何処に在籍しているかまでは今まで気にした事もなかった。
「隣のクラスだという事だけは、伝え聞いて知っていました。ヴィオレット様は、えっと……有名、でしたので」
何重ものオブラートで隠してくれているが、有名の一言に含まれた成分が負の噂である事は明白だ。
クローディアにくっついて迷惑をかけていた事もそうだが、その後の異母妹騒動に関しても。口振りからして、ロゼットが言っているのは後者の事だろう。前者であれば自分のせいだと思えたが、後者に関しては完全なる巻き込まれ事故。父からの被害が学園内にまで及んでいる事を怒るべきなのか呆れるべきなのか……怒るを選んでバッドエンドになった前回を思うと、呆れるべきだろう。怒る体力が勿体ない。
「でも確信はありませんでしたので……一クラスずつ、覗いて見るつもりだったんです」
最初で当たったので、ラッキーでした──そう言って、困った様に笑う表情まで可愛らしい。歩く姿から表情の作り方まで、どれも洗練されて見えるのは、彼女が理想の装っているからではない。自然とそういった振る舞いが出来る程に、身に付いているという事なのだろう。
本当の自分は理想を壊していると、ロゼットは思っているみたいだけれど。きっと彼女の本質は、嘘偽り無い麗しの姫君そのものだ。
「それじゃあ……今度は、私があなたのクラスを探す番ね」
「へ……?」
「そうね……今日のお昼とか」
「あ……ッ、ぜ、是非! お待ちしてます……!!」
ヴィオレットの隣のクラスは、一つだけ。探さずとも答えは明白だ。その事実から、遠回しなお誘いに気が付いたらしい。
頬をピンクに染めて、興奮気味に何度も頷くロゼットは今までイメージしていた姿よりもずっと子供っぽい。
表情がころころ変わって、心と表情筋が直結しているみたいに分かりやすい。好きな物を好きと言えない不自由の中でも、諦めたり手放したりしない芯の強さがあって。ただたおやかに、柔らかく笑って聞き手に回っているだけではなく、お喋りだってするのだという事。
美しい所作が身に馴染んでいる事以外、どれもこれもが噂とは掛け離れたロゼットの姿。
知る事だけが、良い物であるとは限らない。もしかしたら知らない方が良いと思う事だってあるだろう。ロゼットが秘密を抱えているのも、理想のままに振る舞うのも、そう思う人の存在を知っているからだ。
暴く事が、必ずしも良い方向に転がるとは、限らない。さらけ出す事だけが誠実であるとも、思わない。
ただそれでも、昨日、今日、今この瞬間、知った彼女を美しいと思う。理想は破れた、砕かれた。だからこそ、見つけたロゼットは確かに理想の人だった。




