57.二つ
あの日から今日まで、ずっと傍で彼女を見てきた。ヴィオレットに救われた心を、余す事無く捧げたかった。
そして知ったのは、己の無知と無力だった。
救われた癖に、何も出来ない。ただ傍にいたい自分の感情だけを優先して、彼女に何もしてあげられない。
少しずつ、でも確実に歪んでいく。あの日見た美しさは損なわず、逆にどんどん鋭くなっていって。成長すればするほど否定されるヴィオレットが、時間と共に狂うのは必然だったのかも知れない。
支えたかった。救いたかった。
自分が、ヴィオレットを助けたかった。
でも彼女が望んだのは、ユランではなかった。
彼女の恋は、歪んだ先で見つけた唯一の希望だったのだろう。王子様なら自分を救ってくれると、歪んだヴィオレットに残った欠片の純粋さ。お伽噺に憧れる女の子。
それでも、良かったのだ。ヴィオレットが救われるなら、それで幸せになれるなら、選んだ先に己がいない事など大した問題ではない。
歪んだ後も、ヴィオレットは変わらずユランを愛してくれた。そこだけは昔と変わらず、ただ真っ直ぐに可愛がってくれていた。
それだけでいいと、思っていたのに。
× × × ×
「ユラン……?」
ヴィオレットの掌に自分の手を重ねて、指先を包み込む。
離さない、離したくないと、繋ぎ止める様に。でもその意思は伝わらず、ヴィオレットにとってはただ甘えるユランを甘受するだけだった。そもそも離れたい意思を持っていない相手にすがる意味はないのだ。
行動は受け入れられる。ただ感情だけが擦れ違う。
バレる訳にはいかないのに、今はまだ、弟でいなければいないと理解しているのに。ヴィオレットにとっての最善を選ぶなんて、ユランにとっては呼吸と同じ事だけど。
息をするのも辛い事は、確かに存在する。
「どうしたの……?」
「何でも……何でも、ないよ」
「…………」
どう見ても大丈夫ではないユランの様子に、訝しげな視線を向けるヴィオレットだが、彼女がそれ以上突っ込んでくる事はない。
今のユランにとって、心配を盾にした勘繰りは逆効果だと判断したのだろう。その判断は正しいし、仮に問われたとしてもユランには答えられない。
今ユランが抱いている想いは、ヴィオレットにしか伝えたくない想いであり、ヴィオレットにだけは絶対に知られたくない感情だから。
「行こう、ヴィオちゃん。遅くなるとマリンさんが心配しちゃう」
「そう、ね……」
「お腹も空いてきたねぇ」
「ユランは休憩中、何も食べなかったものね」
「買ってきたの、甘いのばっかでさ。ヴィオちゃんの選んでたら自分の忘れてたのー」
軽口を投げ合いながらも、ユランの心には鬱屈した何かが残ったまま。
ヴィオレットの隣で歩く幸せに身を任せているはずなのに、どこかこの光景を後ろから眺めている気にもなる。
ユランは、自分の中に心という機関が二つ存在している事を知っていた。
二重人格とか、そういう類いではなく。ただヴィオレットの為だけに使う心臓と、その奥にもう一つの意思があるというだけだが。
いかなる場面でも、優先すべきは心臓である。もう一つの心は言わばその他大勢に対する想いを詰め込む為の物置でしかない。仮に物置が潰えても、ユランは何の支障もなく生きて行ける。
それでも、確かに存在するそれは、存在するが故にユランの意思を持っていた。ユランの中にある以上、ヴィオレットへ愛が反映されていない場所はない。
乱雑に、適当に詰め込まれた物置の中で、その愛は主張する。ヴィオレットではなく、持ち主であるユランを第一に優先し、尊重する。
二人切りだったら良かったのに。
この世に、自分とヴィオレットの、二人だけだったら良かったのに。
そうすれば、彼女が他の誰かを好きになる瞬間なんて、永遠に知らずに済んだのに。