50.基準は一つ
それは、ヴィオレットとユランがテスト勉強を初めてすぐの頃。
ヴィオレットと二人並んで、談笑も交えながらの勉強会は、ユランにとって至福以外のなにものでもない。
迷いなく答えを導き、滑らかに紙面を撫でる視線。ペンの頭を唇に当てる仕草。眉間を寄せ、少し頬を膨らませたかと思えば、謎が解けた晴れやかな笑顔に変化する一連。
毅然とした美しさ。謎々に挑む子供のあどけなさ。疑問を解消した明るい笑み。ヴィオレットの表情一つ一つ、横目で眺めながらの勉学は、穏やかなBGMの中で励む様な落ち着きがあった。こんなに楽しい勉強会なら、テスト期間でなくとも毎日行いたいくらいだ。そうなれば自分の成績は欠け無く満点を取れるだろう。
ただそれは、ユラン側だけの話。
「ヴィオちゃんは……」
「ん……?どこか分からない?」
「……うん、ここ教えて欲しいんだけど」
「そこはひっかけなのよ。問題をよく読んで見ると答えが書いてあるわ」
適当な問題を指差して、ヴィオレットの意識をそちらに向ける。勿論彼女の説明を聞き流す様な真似はしない。一語一句記憶しながら、自分が本当に聞きたかった事は胸の奥に仕舞った。
──ヴィオちゃんは、誰か教えてくれる人いないの?
答えは聞くまでもなく分かっている。ヴィオレットに三年生の知り合いが多くない事は知っているし、その中でテスト問題を借りられる相手となれば……想像に容易い。
自分以外とこうして並んで勉強会をする姿は、考えるまでもなく不愉快なのだが。自分はヴィオレットのおかげで楽を出来るというのに、ユランがヴィオレットにしてあげられる事は何もない。
年下である事をこれほど悔やんだ事はない。きっと明日には同級生になりたくて、時には年下である自分を称えるだろうけど。結局ユランにとって、ヴィオレットの益である立場は総じて得たいものなのだ。年下である事実と、年下では与えられない物がある限り、ユランは羨望と優越を繰り返す。
そして今は、羨望の時らしい。一年生だからヴィオレットに勉強を教えてもらえるけれど、教える事は出来ないという現状。
歯がゆく思うのは事実だが、思うだけは無いのと同じ。
ヴィオレットの為になる事を分かっていながら、指を咥えて見ているだけなどあり得ない。
× × × ×
「何悩んでんの?」
「うるさい」
「表情無くて怖いんだけど」
全く想いの籠っていない声色と、呆れた様な視線を向けてくるギアは、恐らく大体の理由は把握しているだろう。少なくとも、ユランが表情を繕えなくなるほどに考え込む理由なんて一つしかない。
「その顔でヴィオさんの前に行ったら驚かれるぞ」
「そんなヘマする訳ないだろ」
「あぁそうですか……」
今は休み時間で、教室にはそれなりに人が残っている。それらの目はどうでもいいのか、それとも自分の印象的に見られても問題ないと思っているのか……恐らく後者だろう。普段のユランを知っている者が見れば驚くかもしれないけれど、それすらギャップとかなんとか勝手に補足されるだろう。それだけの人望がユランには備わっている。
「で、結局何を悩んでんの?姫さんになんかあった?」
「その呼び方はやめたんじゃなかったのか」
「ヴィオさんって呼んだ瞬間不機嫌オーラ出しといてよく言うよ……本人いねぇ時はいつの通りにするわ」
「……あっそ」
ユランに自覚はなかったが、どうやらヴィオレットを愛称で呼んだ時、目付きが厳しくなったらしい。
完全無意識、むしろ反射的に出ただけなのだが、改善してくれるなら止める必要もないだろう。姫の呼び名も許した訳ではないが、自分しか呼ばない愛称の特別性を損なわれるよりはマシだ。そう考えるくらいには腹立たしかったらしい。
心が狭いとも思うが、元よりユランの優しさはヴィオレットに全振りされているので、ギアも今更それについて追及する気はないけれど。というか、するだけ無駄だ。
「ギアは三年に知り合い……いないよな」
「せめて聞けよ。いないけど」
「俺にいないのにお前にいる訳ないだろ」
「まぁな」
言っておいてなんだが、この言い種で納得するギアは少々懐が深すぎやしないだろうか。いや、ただ興味がないだけか。
何より、ユランの言葉は事実である。
クラスメイトや同級生は関わる機会が多い分なれるのも早かったが、根本的にギアはその容姿で学園規模で浮いているのだ。
ユランもある程度複雑な事情を抱えてはいるが、それでも『理由』が目に見えるギアよりは小規模だ。
「というかユランは何人かいるだろ。その外面で騙した相手」
「騙してない。向こうが勝手に勘違いしてるだけだ」
「物は言い様ってやつな、それ」
「社交辞令を使って第一印象を向上させるのは当たり前の事だろ?」
「割り切り方が雑……」
言っている事自体には問題がない事が問題な気もするが。改める気の皆無な相手に言うだけ体力の無駄遣い。
それよりも、さっきから何度も横道に逸れる話題を修正する方が大切だ。
「三年に何かあんの?」
「もうすぐテストだろ、だから」
「……いや、それで理解しろって無理だからな」
もうすぐテストである事はギアだって勿論知っている。緩い雰囲気と活発そうな見た目をしているが、王子として最低限取っておくべき点数というものはあるのだ、一応。それをギアがどれだけ意識しているかは別として。
問題はそのテストと、ユランが三年生の知り合いを探している事の関係性。
意味不明といった表情のギアに、ユランは馬鹿なの?とでも言いたそうな視線を向けるが、分かる人の方が少ないだろう。
ため息を一つ、仕方がないという顔で重い口を開き、説明を始めた。
「ヴィオちゃんにテスト問題を貸してくれる人を探してるんだけど、それに見合う相手がいないんだよね」
元々ユランが自ら愛想を振り撒きに行く相手はヴィオレットに関係する者だけだ。同級生と違い交流の必要性が低い相手のご機嫌をとってやるほど優しい人間ではない。
ギアやユランとは別の意味で有名であり、人から距離をとられがちなヴィオレット。彼女にとって有益か、それとも障害かを見極め、いつでも排除も出来る様に立ち回ってきた。
つまりユランの知人に当たる先輩達は皆、何かしらの感情をヴィオレットに抱いていた人間。そんな不安因子を大切な宝物に近付ける真似をユランが選ぶはずもなく。
しかしそうなると利用出来る、基頼れる人材まで一緒に無くなるのだが。
「……仕方がないか」
「ん?」
「何でもない」
不機嫌を通り越して無表情となったユランの呟きに、ギアの眉間に皺が寄る。しかし何でもないと言うユランには食い下がった所で完全無視を決め込まれるだけだと、ギアは長い付き合いから理解していた。
それに自分の決めた事で人に八つ当たるタイプでもない、基本的には。例外にさえ触れなければ問題ない。
結局ユランが何を考えていたのか、ギアが知るのはヴィオレットがその勉強会に一頻り混乱した翌日だった。