47.そこに愛があってはいけない
扉を開けた瞬間、別世界を感じた。
暗い、よく言えば落ち着いた色合いのヴィオレットの部屋は良くも悪くも生活感に乏しい。生まれた時から十五年以上使っているはずなのに未だヴィオレットの色が染み付かないのは、自室でありながらその好みが全く反映されていないからだろう。それでも生活に必要な全ては揃っているし、この家の中で唯一肩の力を抜ける事には代わり無いのでヴィオレットは特に不満を持っていないのだが。
メアリージュンの部屋は、同じ屋敷の中とは思えないほどヴィオレットの自室とは系統が違っていた。
明るい色合いと、可愛らしいインテリア。備え付けをそのまま使っている様なヴィオレットの部屋とは違い、一つ一つがメアリージュンのお気に入りである事がよく分かる。
飾られたぬいぐるみ、写真立て。ヴィオレットの部屋に比べて物は格段に多いけれど、それでも綺麗に整頓されている様は決して乱雑さを感じない。
部屋というのは、人をよく写す。主の好みや生活が明確に表れる。暗く、無機質な部屋がヴィオレットならば、この部屋に感じた柔らかさがメアリージュンの本質なのだろう。
沢山の物を、綺麗に、大切に抱えられる懐の深さ。人がつい愛を連想してしまう場所。
「どうぞ、座っていてください!今お茶の準備をしますね。お腹は……食べたばかりで空いてないですよね」
「えぇ……ありがとう」
パタパタとあっちへ行ったりこっちに来たり。自分の部屋なのに落ちつきなくさ迷っているのは、メアリージュンも少しは緊張しているという事なのだろうか。
そういえば声を掛けてきたときも決意に満ちた目をしていた。つまりそれだけ普段通りでは無かったという事だ。それがプレッシャーになるのか、原動力になるのかは各々ではあるが、メアリージュンか緊張するという事実は少し意外だった。何となく、どんな苦難も自らの糧にするタイプかと思っていたから。
そういえばこうして二人きりで話すのはあの日、絡まれていたメアリージュンを助けた上でお説教じみた事をして以来だ。
(それは……緊張するわね)
かくいうヴィオレットも、その事実を思い出し全身にほんの僅かだが力が入った。
あの日あの時言った事に後悔はない。それは口にするという行為、その内容両方とも。地雷に爆弾を投げ入れる様な真似は勇気ではなく無謀と言う。
「お姉様、紅茶はストレートとミルクどちらになさいますか?」
「ミルクをお願い出来るかしら」
「はいっ」
いつの間にか用意されていたティーセットを、慣れた手付きで扱いカップに紅茶を注いでいく。ヴィオレットもマリンがいなければ一人でティータイムを過ごす事があった為その技術は習得しているが、基本的にご子息ご令嬢という身分の人間は、自ら何かを準備するという行為に慣れていない。
愛され甘やかされ育ったメアリージュンもてっきりその類いかと思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。
香り高いそれは茶葉の品質もあるだろうが、いくら物が良くとも淹れ方を誤れば全てが台無しになる事を、ヴィオレットは知識でも経験でも知っている。
「どうぞ」
「ありがとう、頂くわ」
二つのカップの片方を渡され、 仄かに立ち上る湯気に乗って甘い香りが鼻腔を擽る。
透明感を失ったそれは希望通りのミルクティー。口に含めば、想像通りの甘さと想像以上の舌触りで。味覚と嗅覚を刺激したそれに対する感想は一つ。
「……美味しい」
「本当ですかっ?良かったぁ……っ」
ジッとヴィオレットの感想を待って身を固くしていたメアリージュンは、その一言で溶けた様に肩の力が抜けた。安心したのか、自らもカップに口を付けて柔らかく微笑んでいる。
「随分手慣れていたけれど、いつも自分で淹れているの?」
「いえ、そういう訳では……いつかお姉様をお招きしたくて、練習したんです」
「え……」
少し恥ずかしそうな、はにかんだ様な笑顔。両手で持ったカップで口許を隠して、頬をほんのり染めている。
子供の様に無邪気で、どこまでも白く純粋な存在。素直で、優しくて、柔らかくて。メアリージュンが善人である事など、昔から知っているのに。
今になって、それがこんなにも衝撃的なのは。
きしり、きしり。心臓の近くが段々と細く小さく、ゆっくりと縮まっていく感覚がした。
「お姉様……私、以前言われた事、ちゃんと考えたんです」
膝の上で握りしめた両手に力がこもる。
投げ付けるだけ投げ付けて、何の説明もせずにさっさと逃げた自分の言葉を真摯に考えてくれたのだと、分かった。
「お姉様の、言う通りです。私はこの家の娘として……足りない物が多すぎる。環境が変われば使命も常識も変わるのに、私は何も分かっていなかった」
姿勢を正して、真っ直ぐにこちらを見詰める、その目がずっと苦手だった。初めて会った時、何度も何度も傷付け、再び初めましてをやり直した時。泣きそうに潤んでも、決して翳る事はない。
「あの時の私が間違っていたとは思っていません。人を身分で考えるのはおかしいと、今でも思います。でもそれは……決して正しくもないんだって、知りました」
受け止め、考え、時にはブレず時には変化していく彼女の心根が、恐ろしかった。メアリージュンを知れば知るほど、その恐怖は募っていく。
「そして私達は……貴族は、間違っていないだけでは駄目なんだって、分かりました。何が正しいかは、まだ分かりませんけど……」
ついこの間まで、平民と変わりなかった少女。生まれこそ特殊だが、それでも貴族として育っては来なかった。宙ぶらりんのままどちらにもなりきれなかった子供が、突然貴族という特別な身分を押し付けられて早々に順応出来る方がどうかしている。
それでも、間違う事の許されないこの場所で、いつまでも変わらずにはいられない。
本来なら、全ての原因である父が少しずつでも教えていくべき事だった。
それが施されなかったのは、一重に父が娘を愛し抜いたが故だろう。そしてその愛を間違う事なく受け入れてきたからこそ、彼女は真っ白なままなのだ。
そしてそれは、きっと正しかった。少なくともメアリージュンが善人に育ったのは事実だ。
愛し、愛された。優しく柔らかく、穏やかに美しく。
(どうして、貴方は──)
そんなにも清らかなのか。そんなにも、神聖なのか。
かつて虐げ続けた自分を許した様に。かつて罪人となった自分に慈悲を向けた様に。認めたくなくて、目を背けてきた。八つ当たりだって分かっていた。
心臓に刺さった事実は、もう目を背けてはいられない。
幸せに育ったから、愛されて慈しまれたから、メアリージュンは善人でいられるのだと思っていた。いや、思いたかった。そうでもなければ、自分の置かた立場も苦痛も、捩れ曲がった性根も、受け入れられなかったから。
そこにいれば、自分だって幸せになれたのだと、思いたかった。自分が受けるべき幸せを、メアリージュンが奪ったのだと思いたかった。
もし自分が、メアリージュンの立場だったとして、彼女の様には、絶対になれなかった癖に。
両親が揃っていて、幸せに愛されて生きた人間でも、メアリージュンの様に自分を傷付けた存在を許せる人間は少ない。明るく優しく、ただ純粋でいられる人間は、それだけで稀有な存在だ。
メアリージュンがヴィオレットの立場だったなら、今の様な純真無垢でいられたかは分からない。
でも自分がメアリージュンの立場であったとしても、こんな風にはなれなかった。
「──様……お姉様、大丈夫ですか?」
「っ……ぁ、……ごめんなさい、何でもないわ」
気遣わしげに、こちらを見るその目を見ていられなくて、自然を装ってカップに視線を落とした。
まだ半分ほど残っているそれを口に含む訳でもなく、ただカップの中で揺らしているだけ。
「お疲れの所引き留めてしまいましたもんね、ごめんなさい。今日はお開きにしましょうか!また改めてお誘いしてもいいですか?」
「えぇ……また、ね」
頷いたヴィオレットに、嬉しそうにはしゃぐ姿は可愛い。それは容姿だけの問題ではなく、メアリージュンの持つ空気そのものがあ愛らしいからなのだろう。
可愛い妹。容姿だけでなく性格だってそうだ。守りたいと、傷付けたくないと望んでしまいそうになる。
愛して、しまいそうになる。
「それじゃあ、失礼するわ」
「はい!」
見送るメアリージュンに背を向けて、もう振り向く事はない。駆け出しそうになる歩調を律して、やけに耳に付く心臓の音が不快だった。
優しく、美しいメアリージュン。きっと妹でなければ、その存在を讃えられた。その心根の尊さを拝む事が出来た。
でも、彼女は妹だから。あの父が愛した、同じ血の通う妹だから。
どうしても、愛せない。愛する訳にはいかない。
愛した瞬間自分は、きっとあの子を憎んでしまう。
(ごめんなさい、メアリージュン)
全ての憎しみを飲み込んで、ただ愛する事が出来なくて。両親の事なんて関係ないと、割り切る事が出来なくて。
メアリージュンのせいではないと分かっていながら、恨む可能性を捨てきれなくて。
やっぱり自分は、彼女の様にはなれない。
愛する事も、許す事も出来ない、だからといって恨めるかといえばそれも出来ない。
中途半端でどっち付かず、こんな自分はやはり神への懺悔と奉仕に人生を捧げる事がお似合いだ。消し去られた過去の罪だって償っていないのだから。
いつか離れる身だと割り切って、その日をただ待てばいい。そしてどうか、こんな姉がいた事すら忘れてくれ。
幸せになってほしい。
その願いだけは、決して嘘ではないのだから。