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46.自意識過剰

 ただいまと言っても、帰ってくる言葉はない。

 マリンが迎えてくれる時もあるが、基本的には自室戻ってからの事が多い。そして今日に至っては予告もなく帰宅が遅くなったのだ。

 広い屋敷は、今も変わらず静まり返っている。四人家族であるはずなのに、一人であった時と変わる事なく。その声も存在も、息遣いさえ感じ取れない。

 それが、ヴィオレットと家族達の距離だった。


「ヴィオレット様、お帰りなさいませ。お出迎え出来ず申し訳ありません」


「大丈夫よ。遅くなると言っていなかったのだから」


「どこかに行っていらしたのですか?」


「……生徒会の手伝いを頼まれて、少しだけ」


「え……」


 鋭さの感じられるマリンの目が丸く見えるとは珍しい。それほど意外だったのか、確かにその通りではある。

 長い付き合いのマリンには、ヴィオレットの恋愛遍歴なんて筒抜けだ。拗らせた初恋がどうなったのか、その目で見てはおらずとも予想は付いていたのだろう。進展がないと溢した事は多々あったし、当然と言えば当然。

 しかし今回に関しては、恋愛に無関係であり進展でもなんでもない。ヴィオレットの現実逃避と生徒会の繁忙期が重なり利害が一致しただけの事。


「今年は深刻な人手不足らしくて。特に用も無かったから」


「そうですか……お疲れでしたら、ご夕食はこちらに運びますが」


「手伝いといっても大した事はしていないから、大丈夫よ」


 脱いだ服を渡して、マリンが用意してくれた着替えを順番に受け取っていく。白いシャツに真っ青なロングテールのフレアスカート、最後に襟をマリンに襟を直してもらえば完成だ。

 部屋着というには楽さがないけれど、夕食の席に制服で出席すれば何を言われるかわかったものではない。

 とはいえ出掛ける訳でもない、ナイトウェアまでの繋ぎであれば、品さえ損なっていなければそれで満足だろう。父も、自分も。


「ではまた、ご夕飯の際に参りますね」


「えぇ、ありがとう」


「少しの間ですが、お休みになって下さい」


 一礼して、部屋を出ていくマリンを見送った。一人ソファに座って、そのままパタリと上半身を倒す。

 休んでくれとマリンは言っていたが、勿論眠る事ではなく休憩の意味だろう。ただ夕飯に出席するだけだが、それがヴィオレットにどれほどの心労を与えるのかよく分かっている。

 あまり丸まってしまうと服にシワがよってしまうから、ただ少し体を休めるだけのつもりで二人掛けのソファを一人で占領したのだが。

 いつもより頭を使ったせいか、体は疲れを感じていなくとも脳が休みたがっているらしい。大した事はしていないが、それでも集中するには相応の何かを消費するらしい。


 気が付くと瞼が下がり、揺蕩っていた意識はストンと夢の世界に落ちていた。


 どのくらい眠っていたのか、時間は分からない。

 揺さぶられる感覚に覚醒した意識が真っ先に認識したのは、困った様に眉を下げ、嫌悪感に眉を潜めた、形容しがたい感情の表れているマリンの顔だった。マリンがいるという事実が示す現実に思わず跳ねる様に体を起こしたけれど。

 身嗜みを簡単に整えて、早足で向かう先。何故こんなに焦る必要があるのか自分でも分からない。

 ただ食堂の扉が開いて、真っ正面に見えた父の表情を見て、自分の行動が自分の首を絞めたのだという事はよく分かった。


「遅いぞ、何をしていた」


「……申し訳ありません」


「早く席に着け。皆腹を空かせていたというのに、わざわざ待っていたのだぞ」


「申し訳、ありません」


 一度深く頭を下げて、素早く席に付く。機嫌の悪そうな父を諌める様に、ヴィオレットの目の前では義理の母がその手をゆっくりと撫でて笑っていた。その隣ではメアリージュンが「お父様、そんな言い方しないの!」と頬を膨らませていた。怒っているのかいないのか、どちらにしても迫力はない。効果音をつけるならぷんすこが限界だ。

 話始めた父と娘を、母が微笑みながら見守る。父もさっきまでの不機嫌が嘘の様に娘の言葉を受け止めいうる、完成された光景。

 毎日の事だから今さら加わりたいなんて欲求はないが、そこまでヴィオレットを排除した団欒を繰り広げられるのに何故わざわざ自分を待つのか理解に苦しむ。

 腹を空かせていたといいながら、話すだけで食事に手をつける様子もない。

 湯気の出る様な料理ではないが、わざわざ冷ましてしまう必要もないだろう。一人誰にも聞こえない程度の声で食事の挨拶を済ませ、ナイフとフォークを手に取った。

 食事中であれば、それに集中してしまえる。手を動かし、口を開け、舌鼓を打ってから咀嚼して飲み込む、その繰り返し。あまり早く完食しても席を立てない、正確には席を立つと声を掛けたくないので、それだけは気を付けながら。

 視界の端で三人も食事を始めた事には気が付いたけれど、どうせ父の関心が行くのは一口一口を幸せそうに食すメアリージュンだけだ。


(自意識過剰だったなぁ)


 黙々と食べ進めながら、自惚れていた己に嘲笑が漏れる。勿論周囲には気付かれない様咀嚼しているふりをしたが、それすら意味はないだろう。

 この空間に、ヴィオレットは必要ない。少なくとも両親にとって自分は観葉植物と同等の価値くらいしかないのだろう。もしかしたら彼らの中では存在すらしていないのかもしれない。

 その程度の、喋る置物にしかならない自分の事を、誰が気にかけるのか。帰りが遅くなったからといって、誰が気が付くというのか。夕食に出ないとさえ言えばきっと父はヴィオレットが夜いなくなろうと、帰って来なかろうと気が付かない。

 認識の甘さに反吐が出る。もしかして自分は、心のどこかでまだ父が自分を気にかけてくれる可能性を期待しているのだろうか。仮にそうだとして、それは叶わぬ夢でしかない。


 千切れた糸なら結び直す事が出来る。

 自分と家族の間には、初めから何一つ繋がりなどない。

 奈落よりも深い隔たりは、もう埋まる事はない。


 パクリと、柔らかな魚の身を口に運ぶ。

 ヴィオレットの好みを把握した美味しいはずの夕食は、もう味がしなかった。



× × × ×



「今日も凄く美味しかったぁ……」


 最後の一口を食べ終えたメアリージュンが、幸せそうに頬を緩める。その姿に食後のお茶を楽しんでいた両親は満足そうに頷いて、後でシェフに称賛の言葉が送られる事だろう。

 メンバーは何人か入れ替わっているが、料理長は実母が生きていた時からいる古株だ。見知った人が誉められるなら、それは良い事だろう。昔から知っているせいでおろそかになっているが、また自分も感謝を伝えに行っても良いかもしれない。

 意外にも全員が食事を終えれば解散は早い。団欒を強要する彼らならティータイムと称して拘束されてもおかしくないが、基本的に多忙な父は朝食夕食意外はスケジュールが埋まっている事も多い。ならば自分など待たずに食事を始め、勝手に解散させてもらいたいものだが。

 口出しする権利を持たない自分には考えるだけ無駄だ。食後の時間まで付き合わされる事を思えば、今の方がまだマシだと言い聞かせる。


 誰にも声を掛けず、自分の後ろに並んでいた使用人数名には軽く手を上げておいたが、感謝の気持ちは伝わっているだろう。付き合いの長さと同等に、ヴィオレットの立ち位置をよく理解している人達だ。

 マリンがついてくるのを感じながら、食堂を出る。誰にも声を掛けず、声を掛けられず。まるで初めから誰もいなかったかの様に。

 それなりに存在感がある事と自覚していたのだが、家ではまるで空気と変わらぬ軽さになってしまう。これが外でも使えれば楽なのになんて、思えるだけ回復したと捉えるべきか、それともただ開き直っているだけなのか。


「今日は泡風呂にしましょうか」


「へ……?どうしたの、急に」


「折角ですからお背中お流しします。髪も洗います」


「あら、至れり尽くせりね」


「はい、労いのフルコースです」


 メイドに入浴の手伝いをさせるのは、貴族の間ではよくある事。幼い子供だったり、美の為に専用で雇ったりと、そう珍しい事ではない。

 ただヴィオレットの場合は、昔から入浴は一人だ。記憶に無いほど幼い頃は分からないが、物心がついた時には一人広い浴槽に浸かっていた。ヴィオレットを常に傍らに起きたがった母も、お風呂と着替えの時だけは決して近付かない。

 それが当たり前で、マリンが来てからもそこは変わらなかったけれど。

 疲れきったヴィオレットがお風呂さえ億劫にお思えた時、気分が落ち込んで浴槽に沈んでしまいたくなった時、やる気というものが一切合切削がれてしまった時。マリンは奉仕と称して髪を洗ってくれたり、背中を流してくれたり。母が部屋に籠って出てこなくなってからは一緒にお風呂で遊んだ事もあるが、もうそれは出来ないから。

 人の手のひらに触れられると、思いの外安心するものだ。その機会が極端に少ないヴィオレットの為に、マリンが捻り出した策。


「ふふ……じゃあ、お願いしようかしら」


「お任せください。最近ヘアケアをサボり気味である事は把握済みですから」


 肩の力がゆっくりと抜けていくのを感じて、きっと今ならば美味しいも不味いもきちんと感じられるだろう。

 団欒の柵から逃れられたからというのも大きいが、マリンの心遣いがなければ今ごろは思考の坩堝に落ちいていた。


 笑みさえ溢れでる、家族よりも温かな空間の中で、ヴィオレットの心は満たされていた。邪魔するものは無いはずだと、柔らかな心を開け放って。


「お姉様!」


 背後から聞こえた声に、無防備な心が音を立てて軋んだのが分かる。パタパタと小さな音を立てて、近付いてくる足音がいやに耳についた。


「メアリージュン、どうかしたの?」


 ゆっくりと振り向く頃には、さっきまであった柔らかな微笑みは能面の奥に引っ込んで。機嫌の良し悪しさえ伺えない。

 それでもメアリージュンは笑顔のまま、ほんのりピンク色に染まった頬は照れているのか何なのか。人はこういう生き物に庇護を与えたくなるのだろう。愛らしいと、ヴィオレットでさえ素直に思う。


「あの、今からお時間ありますか?」


「……えぇ、大丈夫だけれど」


 少しの間は、わずかな抵抗。ありません、と会話を断ってしまいたい本心を理性と思考で抑え付ける。もしここでメアリージュンを邪険にした事が知れれば、今度はどんな説教を受けるのか。前科があると、鬼の首でも取ったかの様に独り善がりな正論をぶちまけられる事だろう。

 それは、面倒この上ない。

 だから、この先の言葉なんて想像に難しくないけれど、予防線も張らずに受け止めた。


「じゃあ、あの……っ、よろしければ今からお話出来ませんか?私のお部屋で、是非!」


 ほらやっぱり、想像した通りだ。



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