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第一話 重ねた日を指折り数えて


 夢に見るだけなら、幸せの象徴だと思えるのに。

 それを抱く自分の姿だけは、上手く想像出来なかった。



× × × ×



「あれ、ヴィオちゃんおはよう。まだ寝てても大丈夫だよ?」

「目が覚めてしまったから……」

「そっか。俺はもう少ししたら出るね」


 ふらふらと寝室を出ると、姿見の前でネクタイを結んでいるユランがいた。ヴィオレットが起きるよりもずっと早くに起床していたらしいその身形は既に整えられていて、後はタイを結びジャケットを羽織れば完成だ。急ぎの仕事はないと聞いていたから、彼が特別に早いのではなく、ヴィオレットが寝坊したのだろう。

 ソファの背もたれに掛かっていたジャケットを片手に、ユランが近付いてきた。寝起きでボサボサだろう髪に手を伸ばし、はねっ返った毛先を撫でて、猫を可愛がるような手付きが擽ったいと身を捩る。そんな反応が楽しいと言わんばかりに微笑まれて、何だか自分が子供になった様だった。


「今日は遅くなると思うし、先に休んでていいからね」

「分かった……気を付けてね」

「うん。起きたなら朝食の準備をさせるから、もう少し休んでおいで」


 甘やかす手付きに、眠りに落ちる前の記憶が呼び起こされる。お休みと髪を撫でた時も同じ、優しい体温に瞼が重くなって来る。寝室を共にする様になった当初は緊張と恥ずかしさで眠れる気がしなかったのに。今ではユランのいない広いベッドを寂しいと思う様になった。


「眠たい?」

「だいじょうぶ……」

「ふふ、朝食はもう少し後かなぁ」


 うつらうつら、夢と現実の境が曖昧になる感覚が心地いいけれど、出来れば玄関まで見送りに行きたくて今にも幕を下ろしそうな瞼を何度も擦る。

 寝惚けている時のヴィオレットは言動が幼くなるけれど、恐らく本人に自覚はないし指摘された事もないだろう。ユランも見られる様になったのは寝室を一緒にしてからの事で、それも随分経ってからの事だ。マリンは多少知っていた様子だけれど、自分で起床する事の方が多かった為か、起床直後に人前に出る事はほとんどなかった。

 無防備な姿を人に晒すのは怖い、その分、信頼しているから見せられる面でもある。


「お見送り、行くわ。少しだけ待っていて」

「ありがとう。マリンを呼ぼうか。俺は食ダイニングの方で待ってるから」

「着替えるだけだから自分でするわ、ありがと」

「時間はあるからゆっくりおいで」


 部屋を出るユランが扉を閉めた所で、手櫛で髪を整えながら寝室から繋がる衣裳部屋に足を進める。初めは備え付けられたクローゼットを使っていたけれど、ユランが頻繁にプレゼントを買って来るので、隣の部屋を衣裳部屋に充てる事になった。わざわざ寝室とを繋ぐ扉まで後付けして、プレゼントの量を減らした方がずっと簡単だったろうに。今まで使っていたクローゼットはユラン専用になったが、こちらは仕事着から部屋着、礼服までユランの衣類が全て収まった上でまだ余裕がある。


 綺麗に整えられた衣裳部屋の中はマリンの手によって使い易く片付けられている。ヴィオレットが一人で準備をする事も理解しているからか、区画ごとに綺麗に纏められていて、引き出しをひっくり返して探すなんて真似をしなくて済むので有難い。まだ充分に余裕のある部屋だけれど、ユランのプレゼント頻度を考えると、ここもあっという間に埋まってしまうのだろう。


「止めた方が良いわよね……」


 毎週の様に増えるプレゼントの箱はクローゼットの中だけでなく、自室の片隅でも山を作っている。それが嫌だと思ったことはないが、流石に消耗と補給のバランスが可笑しいとは思う。ユラン本人の物が少なすぎるから余計にそう思うのだろう。彼はヴィオレットの為なら湯水の如く財を注ぎ込むが、自分の為となると途端に無頓着になるから。結婚してから何年も経っているが、ユランが自分の物を買ったのは仕事道具だけである。対してヴィオレットは毎週幾つものプレゼントを貰っていて……そろそろ窘めた方が良いだろうか。


「……分かってはいるんだけど」


 つい数日前に貰ったワンピースに袖を通すと、その時のユランの顔が脳裏に浮かぶ。


『ヴィオちゃんに似合うと思って』


 ほんのり桃色に染まった頬で、溶けてしまいそうな視線で、幾つになっても変わらない甘い顔で。可愛い弟分から世界一素敵な旦那様になってもう幾年と経つが、こういう時だけあの頃の面影で笑うのはズルい。ヴィオレットが何も言えなくなるのをよく分かっている。そして実際に何も言えない。ユランがヴィオレットに甘い様に、ヴィオレットだってユランの喜んでいる顔に弱いのだ。マリンに似たもの夫婦だと言われて否定出来なかった。


 さっきユランが見ていた姿見で確認した姿は人様に会うにはカジュアルすぎるだろうけれど、夫の見送りに問題の無い程度には整っただろうと思う。くるんとした毛先だけはどうにもならなかったので簡単にサイドで纏めてしまった。


「ユラン、お待たせ」

「ううん、お見送りありがとう」


 既に玄関の前にいたユランは、ヴィオレットを待っていたらしい。手に持って出たはずのジャケットは誂えた時にも思った通りよく似合っているし、靴も履き替えられている。

 足早に近付いたヴィオレットの腰を引き寄せニコニコと機嫌よく笑っているが、妻の影が見えるまで眉一つ動いていなかった。見送りに並んだ使用人達はもう慣れて、ヴィオレットは気付いていない、毎朝の光景だ。


「やっぱりよく似合ってるね。着心地はどう?」

「肌触りも良いし、動き易いわ。ありがとう」

「良かったぁ」


 ああ、やっぱり、この顔を見ると何も言えなくなる。どれだけ年齢を重ね、男性として精悍になっても、ヴィオレットに向ける笑顔だけは愛らしい。そして以前は気付けなかった慈しみの光を見付けては、満たされてしまう。


「それじゃあ行って来るね。何かあったらすぐに連絡して」

「ふふ、分かっているわ。行ってらっしゃい。気を付けてね」

「うん」


 頬をすり合わせる様にキスをして、車へと乗り込むユランに手を振った。広大な庭を持つ我が家は、ユランが門をくぐるよりも早く、ヴィレットの視界からその影が消える。動くもののいなくなった庭を、暫くぼんやりと眺めていた。風に吹かれても寒いと感じなくなったのはいつ頃からだろう。何処に行くにも膝掛を持ち歩いていたのに、いつの間にか薄手の上着だけで庭を散策したり。優しい葉音に重なって灰色の髪が揺れる。


 ユランと同じ姓を名乗るようになって、気が付くと、三年目を迎えていた。


 

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