18.世界の名前
あまりにも、さらりとした言葉。クローディアを悩ませたと同じ口調で、声色で。当たり前に、どうでも良い事の様に。
クローディアがいつの間にか下がっていた視線を上げると、呆れた様な表情のユランを目があった。
「言ったはずだ、これは俺の個人的意見だって。納得も理解もする必要はないんだよ」
「だが……それでは俺は変われないままだ」
「別に、俺と同じ価値観なんて持たなくていい。個人の意見はそれぞれで、どれに救われるかなんて分からないんだから」
クローディアの行動を素晴らしいと取る者もいる、ユラン意見を冷たいと取る者もいる、逆だってあり得る。
あの時ユランの言う通りにしていたとして、メアリージュンが成長出来たかも分からない。もしかしたら助けなかった事で深く深く傷付いて塞ぎ込んでしまったかもしれない。
クローディアとユランの意見は違えていた、だとしても片方が間違っているという結論にはならない。
「というか、正直どっちでもいいんだよ。今までもこれからも、あの子が傷付こうが不幸になろうが俺には関係無いから」
あまりの発言に、クローディアは目を円くする。対照的にユランは心底興味が無い様で、瞳は凪いだ水面の様に静かだった。
「なら、何故……」
今までの発言は、まるでメアリージュンを慮っている様に聞こえた。クローディアに庇われた事で彼女に振りかかるかもしれない災難を危惧していたのだと、そう思っていたのに。
ユランには、そんな意図は全く無い。クローディアにどう聞こえたとしても、ユランにとっては己の価値観に従った意見を述べただけ。
あの時だって、メアリージュンなど眼中にもなかった。
「俺にとって問題なのは、そんな貴方がヴィオレットを悪とした事だ」
他人がどうなろうと関係ない。目の前で笑っていようと、絶望に泣き崩れていようと、幸福の絶頂にいようと不幸のドン底にいようと、ユランにとっては他国の天気予報と同じ。どんな結果であろうと事実以上も以下もなく、下手をすれば認識すらしていない。
ただ唯一、ヴィオレットだけは別。
この世の誰が泣き喚こうと、ヴィオレットが笑っているならユランにとって世界は平和そのものだ。仮に世界の存亡とヴィオレットの幸せを天秤にかけたなら、命も人生も全て擲ちヴィオレットが幸せ生きる世界を護って見せる。片方なんて選ばず彼女が幸せになる土台ごと救ってやろう。
そして、だからこそ、ヴィオレットを傷付ける相手は許さない。
それが例え血の出ていない掠り傷でも、神経に届かず痛みもない痕跡でも、ヴィオレット自身が気にしていなくとも。
ヴィオレットの笑顔が陰る事、ユランにとってこれ以上の大罪はない。
あの日ユランが見つけたヴィオレットは微笑みすら浮かべていなかった。
「確固たる証拠もなければ言質すら取れていない、下らない心証だけで、貴方は彼女に罪を着せようとした」
強張っていた表情が自分を見つけて僅かに緩んだ瞬間を、ユランは鮮明に覚えている。
自分がヴィオレットに愛され、慈しまれている自覚はある。だからこそ、その感情が弟に対する庇護の物だという事も、嫌になるほど分かっている。
本来のヴィオレットなら、あの状況でユランに見せるのは毅然とした姉の強さだったはずだ。ユランを騒動から護り遠ざける為に、美しく伸びた背を見せていたはず。
それなのに、あの時の彼女は安心していた。弟の様に愛しているがゆえ頼る選択肢のないユランを見て、それほどに思い詰めていた。
悪として、追い詰められていた。
「ヴィオレット・レム・ヴァーハンのカリスマ性を見誤り、彼女を崇拝する人間が目の前にいたというのに、その全てをヴィオレットのせいにして……貴方はヴィオレットを悪だといった。クローディア王子、他でもない貴方が」
他の誰かだったなら……もし仮に被害者であるメアリージュンだったなら、ユランもここまでの怒りを覚えなかった。他にも加害者の誰か、一部を見ただけの野次馬、話を聞いただけの無関係者でも。きっとユランは気にもしなかっただろう。
ヴィオレットのカリスマ性がどの様に働くのか、ユランもよく分かっている。
彼女自身の能力に加え、生まれ持った容姿と権力。それらのフィルターがヴィオレットの本質を覆い隠している事も、それに気付かず勝手な印象に左右され期待する者落胆する者がいる事も、ユランはよく知っている。その度少しずつ傷付き変わっていくヴィオレットを側で見てきたのだから。
そういう奴らを心の中で何度も呪ってきたが、すぐにその怒りはヴィオレットを慰める方向へ変わっていく。そんな有象無象の事なんかよりヴィオレットの事を考える方がずっと有意義だ。
だからこそ、それが出来ない事実が腹立たしい。
「メアリージュンが貴方に庇われ注目される様に、ヴィオレットもこれから嫌でも人目を集めるだろう。貴方が、王子様が、悪と呼んだ者として」
あまりの不快感に、自分の顔が醜く歪んだのが分かった。言葉にすればより明確に理解する、目の前の男がしでかした事の大きさ。
そして何よりも腹立たしいのは、クローディア自身がその重要性に気付いていない事だ。
今だってユランの表情から自分に対する怒りを感じ取ってはいても、その理由……その中身を一つも理解していない。
いずれ国を背負う立場として、クローディアの熱い正義感はとても大切な物だろう。その燃える感情は国民にとって素晴らしい盾になるはずだ。誰かを救いたいという感情は、決して間違ってはいない。
クローディアが間違えたのは、自らの矛がどれ程い大きいか理解してい無かった事。
「貴方は本当に視野が狭い。自分の影響力を知らなさすぎる。一言の重さを、選択の責任を、理解していない」
クローディアが掲げる盾は多くの人を救うだろう、その事は彼自身もよく分かっている。だからこそ、クローディアはいとも簡単に救いを与えるのだ。
その力があるから、大きく丈夫な盾を持つから、その力を他者の為に惜しみ無く与えられる。それは間違いなくクローディアの懐の深さが成せる業。
だからこそ気付くべきだった。大きな盾があるなら、強大な護る力を持っているなら、矛だって同じである可能性に。
大きな盾には大きな矛を、優れた防御には優れた攻撃を。自らが兼ね備えた存在であると知るべきだった。知っていなければならなかった。
護る者としての責任を果たす時、同時に討つ者となるのだと。
「貴方の正義感は、ただの感情では済まされないんだよ」
「っ……」
睨み付ければ、クローディアの喉ひきつった音を立てる。同じ黄金が対照的な感情に染まった。
ユランがクローディアに笑顔を向ける事はまず無いが、こうして隠しきれない憤りを見せる事も珍しい事だった。
あまりにも大きすぎる感情が押し寄せて、クローディアの足が独りでに一歩下がる。人形の様な硬質さが消え、心を剥き出しにして向かってくる姿は別人の様だ。
その全ては、ヴィオレットの為に。
「貴方の事なんて、どうだっていい。俺の考えに賛同なんてしなくていい、忘れてくれていい。ただ、ヴィオレットの事だけは忘れるな」
作法も考えずに近付けば、二人の距離は二歩で埋まった。それなりに高いはずのクローディアもユラン相手では見下される側となる。
近くで見る互いの瞳は、嫌になるくらい同じ色。しかし似ているのは色だけで、瑞々しいクローディアの眼球とは裏腹にユランの目は硝子の様に冷たく無感情で。
ゆっくりとつり上がった口角が、貼り付けられた笑顔が、その目に浮かばない光を強調する。これは作っているのだと、気付かせる為の表情。
「──ヴィオちゃんを傷付る奴は、誰であっても許さないから」
凍えてしまいそうな声が、クローディアの胸を突き刺した。今までも何度と無く味わった線引きが、また深く濃くなった事を思い知らされる。
無関心だった心が動いた。でもそれはクローディアにではなく、ヴィオレットの敵だから。予期せぬとはいえ、クローディアは確かにユランの逆鱗に触れたはずなのに。
「じゃ、もういい?時間食っちゃったから急がないと」
固まったクローディアの隣をすり抜けて、ユランの頭にはすでにヴィオレットを探す時間の計算式だけが回っている。クローディアとのやり取りなんて、無駄な時間としか思っていない。
「ユラン──」
何故引き留めたのかは分からない。ただこのまま別れたら、ユランは一生クローディアの話を聞きはしないだろう。
振り返り、その腕を掴んで歩みを妨げるつもりだった、のに。クローディアの指が触れるより早く、ユランの足が止まる。
自分の声が届いたのかと、クローディアは期待するがそれも一瞬。次には己の勘違いに気付く。
「ヴィオちゃん……?」




