189.責任転嫁の行き付く所
ユランの裾を掴んでいたヴィオレットの手に力がこもる。少し震えていて、包み込んだら汗ばんでいるのにひんやりと冷たかった。唇をきつく結んで、視線はずっと一点を見つめたまま、瞬きさえ忘れている。
きっと、ずっと昔、こうして『妻からの愛』に耐えて来た。
「聞かなくていい、見なくていい。目を閉じて、大丈夫だから」
両手で耳を塞いで、ヴィオレットの顔をユランへと向けさせる。キョロキョロとさ迷う視線に割り込んで笑って見せた。刻まれた記憶が目を逸らす事も瞑る事も出来なくさせるなら、無理矢理引き剥がしてしまえばいい。
ユランが笑い掛けるだけで、ヴィオレットは強張っていた体から力を抜き、言われた通りに目を閉じる。耳を塞ぐユランの手に自分のを重ねて、止まっていた呼吸も再開された。
漸くユランもホッと胸を撫で下ろす。ヴィオレットの耳を塞いだまま、横目で睨み付ける様に、ドロドロに溶けて崩れて家族を見る。
おままごと用のドールハウスだと思っていたけれど、実際はちょっとした衝撃で崩れてしまう砂の城だったらしい。跡形もなくなったそれを、わざわざ踏み潰す必要はないのだろう、けど。
この家に着いてから初めて、心からの笑みが零れた。
「……報告は終わりましたので、私達は失礼致しますね」
きょとりとこちらを向いたエレファは、あまりに邪気がなくて吹き出してしまいそうだった。自分で自分の愛の巣を踏み潰した自覚がまるでないらしい。当然だ、エレファは何一つ変わっていないのだから。
昔から、結婚するずっと前から、オールドと出会った時から、エレファは何も変わっていない。ただ誰も、今日まで気付かなかっただけで。
「私の妻は彼女だけ、替わりなど存在しない。……そういう契約です」
「そう……残念だわ」
エレファは残念そうに肩を落としただけで、それ以上縋る事もない。そうなったら良いなという希望を口にして、駄目なら仕方がないかと諦める、その気軽さに舌打ちをしたくなった。
どちらでも良かったのだろう。ヴィオレットが理想ではあったけれど、メアリージュンでも、別に。
欠片の混じり物もなく、ただオールドだけを心底愛している女。清すぎる愛情で相手を壊していく様を眺め、腹がよじれる程笑い散らかしてやりたい気もするが、ヴィオレットをこの場から遠ざける方が重要だ。
「彼女の部屋の物は今から整理して移動させます。見送りは不要ですのでご安心を」
ヴィオレットの背を支えて、寄り添う様に立ち上がる。少し落ち着いた様子ではあるけれど、まだ血の気は引いているし触れている背は布越しでも分かるくらい冷たいままだ。
そんなヴィオレットよりもずっと顔色の悪くなったオールドを、わざとらしいくらいに完璧な笑顔で見下ろした。
ベルローズから逃げて、ようやくたどり着いたエレファという理想郷。天国の様だっただろう。醜く穢れ切った独占欲ではなく、寄り添い支え思い遣ってくれる慈愛の心を向けてくれる女は、聖女の様であったのだろう。
お前が憎み続けたもの、愛し続けたもの、その時間。全てが崩壊し尽くした今、何を思うのか。なまじ良質な頭脳を持っているから、未来の自分の姿が簡単に想像出来たのだろう。もうなすり付けられる相手はいない。もう、ヴィオレットは、オールドの贄になってはくれない。
もう、取れる手は、残っていない。
「話し合わなければならない事がおありの様ですし……色々と、ね?」
あぁ──その顔が見たかった。




