188.致死量
言葉を失った男は、愕然としたまま愛情のたっぷりこもった妻の笑顔を見つめている。いや、もう視線を逸らす気力もないのか。母の言葉が理解出来ていないらしいメアリージュンも、まあるい目を瞬く事すら忘れて、理想であったはずの両親を眺めていた。
(なるほど……二人が警戒する訳だ)
目の前で勝手に崩れ落ちた家族を見て、ユランの脳裏に真っ先に浮かんだのは真剣な表情で忠告する二人の大人。
マリンと、シスイ。出掛ける前にはシスイが、別れる直前まではマリンが、耳にタコが出来そうなくらいに言い聞かされた。オールドか、若しくはメアリージュンの名が出るかとばかり思っていたが、予想に反して二人が口にしたのはいつもオールドの影で微笑んでいるだけのエレファについてだった。
基本的にヴァーハン家の全てに毛を逆立てているマリンは兎も角、シスイまでもがわざわざ伝えて来るなんて……今となっては納得しかないけれど。
「あぁ、もしかして、私がメアリーを邪険にしていると思ったの?」
力が抜けて動けないオールドの手を握り、不安を全て取り払う穏やかな声が耳を打つ。ユランには甘ったるくて吐き気がする。そしてオールドには、心を癒す天使の囀りだった事だろう、今この瞬間までは。致死量を超えた糖分はその身を蝕むだけ。
「そんなはずないじゃない。メアリーはあなたの子ですもの。とってもとっても大切よ。あなたの血を引く、あなたと同じ遺伝子を持った、可愛い可愛いあなたの娘」
うっそりと笑う女は、ただただ愛を囁く、注ぐ。そしてその愛に嘘は微塵もない。言葉通り、愛している。メアリージュンを授かった時から生まれ育つ全ての瞬間、一分一秒欠かさずに愛して来た。
愛して、愛して、愛して愛して愛して、愛して。
「私が、あなたの子を愛さない訳ないでしょう」
尽きる事なんてない。どれだけ想っても足りない。この愛に果てなんてない。
だって自分は、彼の全てを愛しているのだから。顔も髪も心も、彼を構成する細胞の一つまで、余すことなく愛しているのだ。彼の子であるメアリージュンだって当然心の底から慈しんで来た。この提案だって、意地悪をしたくて言っているのではない。
「ただ、優先順位の話なの。義父様の決定を覆す事は出来ないから……」
どうか聞き分けてくれと、眉尻を下げて苦笑するエレファの視界には、一体何が映っているのだろう。血の気が引いた夫でも、打ちひしがれている娘でも、凍り付いた空間でもないのは確かだが、あまりにも平然としていて不気味を越えて恐ろしさすら感じる。
でも、つまりそれは、彼女にとって『今』は動じる必要すらないという事で。
きっと、ずっと、エレファにとっての家族の形は。その愛の先は、一人だけ。
「ヴィオレットさんは、本当にあなたに似ているでしょう? 髪の色も顔立ちも、昔のあなたそっくり! 本当に素敵、可愛い可愛い、あなたの子。私の夢から出て来たみたいに、理想そのものだわ」
メアリージュンと同じ、彼の血を引く、彼の遺伝子を持った子。
メアリージュンと違い、彼の髪色、顔立ちをした娘。
あぁ、あぁ、なんて──
「なんて、幸せなんでしょう」
恍惚とした表情で呟かれた『幸せ』は、羽根の様な軽さと刃の様な鋭さで、愛する夫の『幸せ』を切り捨てた。




