187.愛、愛、愛
「ッな……‼」
「ッ……⁉」
驚きで息を呑んだ二人の様子など、視界に入ってすらいないのか。柔い皮に包まれた中身は、獲物を狙って舌なめずりをする蛇の様だ。恍惚としてさえ見える表情はオールドよりもずっと愛情深いだろうに、ドロドロと纏わりつく様な不快感に、ヴィオレットは机の下でユランの裾を掴んだ。
大丈夫だと思っていたし、事実この瞬間まで何も感じなかった。父を前にしても、揺らがなかった芯の部分が、どうしたって拭い切れないトラウマに揺さぶられる。こればかりはユランにも、ヴィオレット自身にもどうにも出来ない、理性ではなく動物的な本能が告げる危険信号。
父の名を呼んで娘に縋る、憐れで不憫な母との『思い出』。
「これが政略的結婚なら、メアリーが相手でも問題は無いはずでしょう? むしろそれが最適解じゃないかしら。メアリーは血こそヴァーハンではないけれど、現当主オールドの娘である事は確実なのですし」
にこにこにこ、笑顔を絶やさず、淀みなく紡がれる言葉達に間違いはない。
政略結婚。つまりは、家同士の益を考えるなら、メアリージュンでも充分にその役目は全う出来るだろう。血の話は、そもそもユランにクグルスの血が流れていない時点で議論にすらならない。現ヴァーハンの当主、オールドの娘である事が揺るがない時点で、ユランの伴侶として問題はない。そしてヴァーハンの方も、直系であるヴィオレットを手放さずに済む。ユランがヴィオレットを指名していなければ、ご隠居もそうしていたはずだ。
最適解、まさにその通りだろう。合理的に考えれば、それが一番ウィンウィンである。
「エレファ……何を、言って」
「ねぇ、あなたもそう思わない?」
きゅるんとした碧眼が、驚愕に言葉を詰まらせるオールドを射抜く。キラキラと輝くそれを宝石の様だと思っていたはずなのに、今のオールドには何故そんなにも美しい笑顔を浮かべられるのか全く理解出来なかった。
自分を政略結婚の被害者だと感じているオールドにとって、エレファはそれに巻き込まれた同じ被害者で。当然、エレファも自分と同じ様に政略結婚を疎み蔑み、唾棄していると思っていたのに。
そんな悲劇の中でも優しく愛らしく、清く正しく生まれ育った最愛の娘に、ヴィオレットの代わりに嫁げだなんて。
「思う、訳ないだろう……こんな、こんな結婚、こんな男に、メアリーを任せるなんて……ッ‼」
肩を掴んで、正気なのかと詰め寄るオールドに、エレファは変わらず慈悲深い聖女の如く微笑むだけ。優しく優しく、柔らかな愛情でオールドの全てを許して包み込んでくれる。そんな姿に惚れて、のめり込んで、生涯愛すると誓ったはずなのに。
オールドの脳内に、一人の女の顔がちらついた。
「仕方がないでしょう」
肩を掴んでいるオールドの手に己の手を重ねて、宥める様に撫でるエレファは、困った様に、それでいてこちらに言い聞かせるに、小さな唇で音を紡ぐ。
「だって──この子は、あなたに似ていないんだもの」
もう細かい造形なんて思い出せない、声なんて、甲高くて不快だった記憶しかない。ただただ疎ましくて、嫌いだなんて言葉で言い表せないくらいに恨んで憎んで遠ざけた。死に目にさえ、会いたくないと拒絶した女。
顔も声も内面も何一つ共通しない、対極に居るはずの前妻が、目の前で笑う最愛に重なった。




