185.大丈夫
何度も大丈夫かと聞かれた。今からでもやめていいんだと、心配そうに表情を歪めたユランに大丈夫だと頷けば、なら良いけど登引き下がってはくれた。けれど、眉は八の字を描いたまま。心配性な彼を安心させたくて、目を見て微笑んだら漸く同じ表情を返してくれた。
いつも呪文みたいに唱えてきた『大丈夫』を、今日は本当に心から思っている。自分でも不思議なくらい波風の無くて、ユランが用意してくれた紅茶の味は鮮明なのに、脳裏に浮かんだ沢山の光景には何の感想も抱けなかった。
× × × ×
久しぶりに訪れた生家は、記憶にある時と何も変わらない。数か月前はあんなにも嫌厭していた場所だというのに、外から見るとその意匠の美しさは素直に賞賛出来るものだった。何事にも執着心の強い母が作らせたのだから、当然といえば当然。別邸はまた雰囲気が違うらしいが、行った事どころか、遠くから眺めた事すらないので実際は知らない。
「挨拶をしたら部屋の物を取りに行くから。簡単な挨拶で終わらせるつもりだけど、念の為マリンさんに、先に荷造り始めて貰ってる」
「え……それで朝からいなかったの?」
「うん、何人か手伝いに俺の所のも連れてかせてるから男手の心配はないよー」
ヴィオレットの支度を済ませてから一向に姿が見えなかったマリンについて、何か急ぎの買い出しか、それとも他の場所で仕事をしているのかと思っていたが、どうやら一足先にヴァーハン家へと向かっていたらしい。
一瞬心臓の辺りはひんやりとしたけれど、それもユランの言葉ですぐに温度を取り戻した。マリン一人で敵地に向かわせるなんて、ヴィオレットには身を切られるよりも恐ろしい事態であったから。ユランの言葉に、男手としても勿論だが、護衛に近い人選を用意してくれたのは容易に想像が出来る。
「ありがとう」
「ううん。マリンさん借りちゃったせいで朝バタバタさせちゃったよね。先に言っておけば良かったんだけど……」
「仕方がないわ。まさかこちらの予定を聞く前に日付を指定されるなんて思わないもの」
本当なら、先にマリンを寄越して荷造りを済ませた後で挨拶をし、そのままヴィオレットの生きた痕跡全てをこの家から消し去るはずだった。ヴィオレットも出席するのであれば、滞在時間は最低限、むしろ『婚約しました、引っ越します』の二文だけ告げて帰っても良いくらい。
その為にマリンのスケジュールも調整していたし、挨拶の日取りも計算したりと計画していたが──これまた傲慢と不遜と非常識が服を着た様な彼の父は、当然の様に日付と時間を指定決定した手紙を寄越して来た。それを読んだユランが、いっそ日付が変わりそうな夜更けである今この瞬間に襲撃してやろうかと青筋を浮かべたのは、必死に実力行使で止めたシスイだけが知る所である。
「本当にごめんなさい、せっかく色々と準備してくれていたのに……」
「ヴィオちゃんが謝る事は何にもないよー。むしろ謝られる側だからね!」
スケジュールが狂ったのは確かだが、日取り調整の面倒がなくなったと前向きに捉える事が出来なくもない。正直、予想していた事態でもあった。
ヴィオレットはあの父がこちらの予定を慮るはずがないと確信していたし、ユランもそんな気遣い出来る人間ならそもそも政略的方法で婚約なんてしていない。期待とは、多少なりとも相手を評価しているから抱ける感情であって、日付も時間も、場所まで自邸に指定しておきながら、先に待っている事も出来ない人間に今更抱け感情は『無能だな』の一言だ。
「ヴィオちゃんは何も答えなくていいし、返事しなくてもいい……無理そうなら、退席しても良いからね?」
「ふふ、ありがとう。でも本当に大丈夫よ」
心配し過ぎだと思うけれど、経緯を思えばユラン一人で挨拶に来ていないだけ譲歩されている方だろう。今までの仕打ちもそうだが、自分は父に殴られた上家を飛び出し、捜索すらされなかったのだから。
今は大丈夫でも、目の前に現れたら……なんて事になっても可笑しくはない。ユランが心配しているのも、そこなのだろう。
ヴィオレットも、何故こんなに穏やかな気持ちでいられるのか、説明するのは難しい。
でも本当に、心の底から『大丈夫』なのだ。
──ノックもなく現れた男の顔を見て、やっぱり、そう思った。




