182.燃え尽き症候群
「ヴィオレット様、ホットミルクが冷め切ってしまいますよ」
「……あ、ごめんなさい。ぼーっとしていたわ」
「お疲れでしたら、今日はもうお休みになられた方が良いのでは」
「大丈夫、目が冴えてしまって全然眠くならないの」
「それはそれで心配ですけれど」
両手で持ったカップは、既に湯気が消えている。初めは暖かかったはずなのに、今はもう陶器の冷たさが指先の温度を奪い始めていた。
烈火の様だった怒りは消えていて、燃え尽きた後の虚しさと喪失感。心の何処かにぽっかりと穴が開いた様に感じるけれど、それはそこにこびりついてた感情を捨てられたという事でもあって。
何一つ終わった訳ではないけれど、なんだか全てが終わった気がしていた。
「ねぇ、隣に座ってくれる?」
「え? ……はい、構いませんが」
長いスカートを揺らして、いつもソファから見上げている顔が同じ目線に下がる。その距離は人一人分、手を伸ばしたら届くけど、体温を感じるには少し遠い。
こうして隣に並べなくなったのは何故だったのか。実母が生きていた頃は、大人の目を盗み二人で座り込んだりしていたのに。心の余裕を失って、そんな事すら気が付かなくなっていた。
離れていた距離を詰めれば、マリンの肩が少しだけ強張った。驚いただけだと分かるから、何も言わずにその肩に頭を預ける。
「可笑しいわよね」
「え……」
「マリンには、こんなに安心するのに」
近くで感じる、命の温度。手の平を合わせると、もっともっと安心する。この手が作るホットミルクと同じ、甘くて優しい空気で肺が一杯になって、呼吸をするだけで心地いい様な。
あの家には、あの人達には、絶対に抱けなかった感情。
「どうしても駄目なの。許せない……許したいって、思えない。そういう感情で、そういう関係なのよ、私達」
夢を見ていたのは、何もメアリージュンだけでは無い。ヴィオレットだって相応に『家族』の夢を見て、そして挫折したのだ。
メアリージュンにとって、今日が挫折であったら良いと思う。それが、ヴィオレットが唯一抱ける優しさで、突き付ける現実だ。
「穏やかにさよならが言えたら、美しい終わりだったわ。でもそんなの、無理よ。私は苛烈な人間だもの。そういう所だけは、本当によく似てるから」
認めたくはないけれど、自分は本当に両親によく似ている。
我儘で横柄で独善的で、すぐに癇癪を起こし人に当たる、体ばかり成長した子供。恨みを募らせてメアリージュンを殺そうとした自分と、怒りに任せて自分を殴った父。行動までもがそっくりだ。それが実母の教育によるものなのか、元々の性質なのか、今となっては確かめる術もない。
「似ているから、駄目だったのかもしれない。母は父と同じを求めていたし、父は母とは違う人を求めていた。私は、どちらにとっても中途半端な子供だった。女として生まれた時点で、父も母も『ヴィオレット』なんていらなかったのよ」
男であったなら、母の求めるオールドになれた。男であったなら、父はベルローズの面影を見たりしなかった。娘であった時点で、二人にとってヴィオレットは失敗作で、捨てて当然の不良品だった。
でも、もし男として生まれていても、ヴィオレットに健やかで柔らかな未来はない。母の玩具として偽物となるか、父の後継者としてメアリージュンの自由を守る駒になるかの違いだ。
「私も、そう。私にとっても、あの二人の間に生まれたのは失敗だった。私の人生に、二人は必要なかった」
どう転んでも、あの人達と家族にはなれない。努力とか、もしもとか、そういう希望の入り込む隙すらない程、徹頭徹尾壊れた集まりで。関わらず縁を切る事だけが、辛うじて解決に至るだろう方法。
「……疲れた」
マリンに体を預けたまま、ゆっくりと目を閉じる。
万感の思いが渦巻いて、零れ落ちた一言は溜息に似ていた。




