180.相思
小さい頃の記憶は、どれも曖昧だ。ヴィオレットとの出会いは鮮明に覚えているくせに、他はどれもこれも靄に映る影の様で。自分を虐めていた奴の顔すら、人影程度にしか捉えられない。もしかしたら今、同じ教室で授業を受けているかもしれないけれど、それに気付く事もない。
そんな朧げな記憶の中には、今の両親に手を引かれた時の体温も含まれている。
「宰相として優秀なのは、恩恵を受ける側にとっては有難いんだろうが、切り捨てられる側からしたら迷惑極まりない。それがどんな英断であったとしてもな」
そして優秀な我が両親は、ユランがその迷惑を被ったのだと正しく理解していた。だからこそ、自ら地雷そのものであるユランを引き取り、何不自由なく育ててくれたのだろう。
「優しい人だよ。歪みがなくて、いつも正しい。だからこそ、救われたらその時点で全てが清算出来ると思ってる」
紅葉の様な己の手を包む、大きくて固い大人の手。細い指と、骨張った指に両手を取られて、拘束されている様に感じた。ニコニコと温かい笑顔を向けて、ユランの心持ちが出荷される直前の家畜と同等である事に気が付きもしない。
ユランの境遇を、可哀想だと思える良心があって。その未来を、仕方がないと切り捨てられる優秀さがあって。手を差し伸べられる決断力と行動力があって。それでも尚、歪んでしまう人の柔さに気付けない、真っ当さがあった。
「俺の目を見て、その生い立ちを想像出来ない人間はこの国にいない。社交界なら尚更。それでも俺を自分の子だとしか言わない事が、どんな不調和を生むのか」
分からないはず、ない。ユランが王家にいる事の不利益に気付ける人間が。
実際、ユランの幼少期は生傷と侮蔑の視線で満ちている。
「といっても、あのまま娼婦の子として王家にいたとして、今より良い環境にいられたとも思わないから文句を言うつもりはない。ただ……誰も悪くないのよ、なんて言わせるつもりもない」
傷だらけで蹲るユランの背を撫でて、両親はいつも優しく寄り添ってくれた。貴方のせいじゃない、貴方は悪くない。その裏にある言葉が、幼い心を蝕んでいるなんて思いもしないで。
可哀想だけど、仕方がない。仕方がない事だから、どうにも出来ない。どうにも出来ないから、誰も悪くない。他に方法がないから、それでも少しでも良くなる様に尽くした、だから悪くない。何も誰も、悪くない──あなたは、悪くない。
「悪くないのは俺だけだ……少なくとも、決断した奴らまで無実にしてたまるか」
中途半端な慰めと、施し。それで勝手に償った気になって、一度も、ユランがどう思っているか、どうしたいかを聞きもしないで。
優しくしてもらった、思いやってもらった、沢山尽くしてもらえた。ただ、一番古く膿んだ場所だけは、手当てをしてもらえなかった。
それが、――それだけの事が、ユランが全てを諦めた理由。
「贅沢だって思うか?」
権力と財力、その上愛情もちゃんと注がれていながら、こんなもの欲しくなかったと駄々を捏ねる自分は。足りないと喘ぐ者達には業腹であろう姿だ。
でも、だって──いらないのだから、しょうがないじゃないか。
「……いいえ。少なくとも俺はいらないですね」
「あぁ、確かに……あんたには重そうだ」
柵を跨いで、拘束を千切って、己が望む場所で望む事を成す。絶対に揺らがない太い芯を持った大人の男であるシスイは、そのくせ子供よりも余程自由で身軽に見えた。権力も財力も、枷になるくらいならと捨ててしまえる決断力がある。そうでなければ、いくら大切と言えど雇い主の娘の為に、雇い主を投げ飛ばすなんて真似はしまい。
自分もこうであれば、もっと他の方法を選べたんじゃないかって思うくらい。彼女があんなにもボロボロにならずに済む様な……いや、そもそも二度目など必要なかったんじゃないか、なんて。
「だからこそ、俺には無理なんでしょう」
「…………」
「俺は背負うのに向きません。支えるくらいは出来ても、全部丸ごと抱えるなんて出来ない。いらない物は簡単に捨てられても、自分自身は捨てられない。きっと、皆そうです」
支えるだけでは駄目だった、だったら今度は、全部全部俺が抱えれば良い。
持てないなら、持っている物を捨てれば良い。全部、全部捨てていい。
「お嬢様には、坊ちゃんでないと駄目ですよ」
「そうか……はは、……そ、っかぁ」
今にも泣き出してしまいそうな、頼りない声だった。子供がサイレンの様に泣きじゃくる手前の様な、危うい空気を纏って泣き笑う。頬に涙が伝っていないから、厳密には泣いていないのかもしれないけれど。
ソファの背もたれに首を傾けて、天井を見る瞳を腕で塞いだ。
俺では駄目だった運命を、無理やり捻じ曲げて今を作り上げたから。一度目の悲劇が報われる事実を伏せて、幸せにするからなんて言い訳をして、ヴィオレットの未来を縛り付けたって。
涙は出ない。感動した訳じゃない。
聞き逃してしまいそうな軽い口調の、事も無げに紡がれた言葉に、ただ、泣きたくなるくらいに安心しただけだ。




