179.善き人だと知っている
落ち着きを取り戻したヴィオレットを送り、ユランが帰るのは自宅ではない。
「今日も来たんですね」
「早く完成させたいし、もう荷物はほとんどこっちにあるから」
そういいつつ、ユランの分まで夕飯を用意している辺り、こちらに帰ってくるのは予想していたのだろう。
今、ユランとシスイがいるのは、ユランが個人で所有している邸宅だ。クグルス邸よりは随分と小さいが、使用人用の生活スペースまで完備された美しい洋館。ユランが物心付くまで──実の母が亡くなるまで、住んでいたらしい場所。といっても、ユラン自身に記憶はないのだけど。
「あらかた出来上がってきましたね。後は坊ちゃん達の部屋位ですか」
「そこは最低限整えたらヴィオちゃんの好みに合わせていくつもり」
タイを乱暴に緩めて、片手で食べられる用に考えられた夕飯のサンドウィッチを大きな口で消費していく。エネルギー補充の為言わんばかりに、味の感想なんて皆無だと、ユランの表情は変わらない。
二人で中心となり家を整えていく中、シスイは慣れると同時に嫌と言う程このユラン・クグルスという男を知った。美しい顔に騙されているつもりはなかったが、想像以上に極端で酷薄な人間だ。善悪の頓着もなく、きっと法がなければ、挨拶と同じ気安さで人を殺める事も出来る様な。
そして同じだけ、そういう接し方をされてきたのだろう事も。
「今更ですけど、ご両親は何もおっしゃらないんですか」
「ほんと、敬語が似合わないな。敬意を持っていないのが丸分かりだ」
「感情が声に乗らない質でして」
「構わん。仕事をこなしてくれるなら敬意の有無はどうでも」
片手間に食事をしながら、雑な所作で着替えていくユランは、その手付きとは裏腹に身分相応の不遜さがあった。シスイを対人ではなく、物と同列に思っている節が見て取れる。実際、ユランにとってのシスイは、ヴィオレットの食を担う大事な『物』でしかないのだろう。
どんな認識であれ、仕事がし易いなら文句はない。そんな納得の仕方をするシスイも、結局はユランとよく似た情の薄さをしている。
「言い出しっぺとして、自分の目で見守りたい……って言ったら納得した」
「え?」
「うちの親は柔軟で懐が深いからな」
褒める言葉選びとは対照的に、その表情も声色も平坦だ。自分で見て接してきたからの感想というより、書面に書かれた設定でも読んいる様な。
その落差が、一等、それに包まれた無関心さを強調させる。
「……優しそうな人達ではありましたね」
「あぁ、見たままの印象で大丈夫だ。何かあったら頼るといい、全力で力になってくれる事だろう」
ユランに紹介された一回だけの対面ではあったが、邪気のない笑顔と柔い声は人好きする理由になるだろう。勿論、外面が良いだけの可能性もあったから、何となく濁す言葉を選んでみたが。
またしても、温度のない声で温かい言葉を紡ぐ。
「……嫌っている訳ではない。正しい人だと思っているよ。清く美しい、真っ当な善人だ。宰相としても優秀だし、親としても素晴らしい、正しく、人格者ってやつなんだろう」
ユランの言葉に滲んだ無関心を、シスイが察したと気が付いたのだろう。こんな言い方をしては、あまりにも説得力がないと。
滑らかに語られる、賞賛の声。そこに負の感情は見当たらなくて、きっと、本当にそう『認識』している。ただそこに、砂粒程の感情も見当たらない。
でも、と続いた言葉に、初めて温度が宿る。表情だけは変わらず、不気味な程に凪いでいたけれど。
でも、俺にとっては。
「──俺が捨てられる事に、疑問を持たなかった人だ」
この子供が、最初に諦めたのは──。




