176.選べなかった者
蹲る背に感じたのは、悲哀とか憐憫ではなく、ただの苛立ちだった。余計な事ばかりして、予想よりもずっと屈強で諦めが悪く、愚かしい。何度も忠告したというのに、それをただの脅しととったのかハッタリととったのか。どちらにしても親切と受け取って慎みでも身に付けてくれたら、こんな事にはならなかったというのに。
「身から出た錆の良い例だな」
「ッ……!」
ビクリと大げさなまでに体を震わせた少女は、振り返る事も出来ずに石の様に固まってしまった。それだけ恐ろしいという事なのだろうけれど、ユランからすればそんなになるなら大人しく箱入り娘でいれば良かったのだ。守られ甘やかされ、天狗になった挙げ句の結果が現状である。
「頭が悪いのもここまで来ると才能か。良かったな、君は天才だ。人の心を踏み躙る天賦の才があるらしい」
ぱちぱちと軽薄な拍手を贈りながら、座り込むメアリージュンの前に回り込む。真っ青な顔で瞬きも出来ずにボロボロ涙を溢している姿に、溜飲は下がる所か忌々しいと舌打ちしたくなるだけだった。
細かく震える様は、捕食される前の動物に似ている。若しくは、悪魔を前に羽根を捥がれた天使か。逃げる事も飛び去る事も出来なくなった哀れな獲物は、ここまで来て許しを乞える程能天気ではなかったらしいが。もう少し早く気付いていれば、喰われずに済んだというのに。
「願えば、祈れば、誰かが助けてくれるって思ってたんだろ。諦めなければ夢は叶う、お姉様が戻ってきて理想の家族は元通り、そんな結末でも妄想してたか」
粉々に砕けた家族を、元通りにしたかった。その思いは、健気な少女に相応しい願いなのかもしれない。その願い自体を否定する気も、取り上げるつもりも、ユランにはなかった。もし仮に、メアリージュンが一人でヴァーハン家をどうにかしようとしていたなら、ユランはここまでの怒りを覚えなかった。不幸になれと邪魔立てはしただろうが、立て直したいというメアリージュンに対しては、欠片の興味も抱かなかっただろう。
メアリージュンが間違ったのは──ヴィオレットの手で、元通りにしたがった事。
「安全な場所からのたうち回る人間を見るのが余程楽しかったらしい。人の不幸は蜜の味、先人はよく言ったものだな。自分の姉がぼろぼろになって行く様だけではなく、これからもあの家の生贄であって欲しいとは」
「ッ! ち、が……‼」
「では、どういうつもりだった」
粉々になった家族の破片で、ヴィオレットが傷だらけになったのを目の当たりにして尚、戻って来て欲しいと縋るのは。家族じゃないと、要らないと叫ぶヴィオレットに、悲しむその性根は。
好きだ好きだと叫ぶだけで、ヴィオレットの嫌だ嫌いだという声には、耳を傾けようともしないその心は。一体何を望んで何を求めているのか。
「何も捨てられないあんたに、誰が心を傾けたいと思う」
姉か、両親か、どちらかしか選べない事は明白なのに、どちらも欲しいからヴィオレットに犠牲になって欲しい。どちらも捨てられない事を美徳の様に振り翳し、本当は、誰かが自分の望みを叶えてくれるのを待っている。鳴いて、口を開けて待っていれば、餌が運ばれてくると信じ切った雛鳥。
ヴィオレットは、欲の為に愛を求めた。生きる為に愛を捨てた。終わらせたくて、命さえ諦めようとした。成し遂げたい事の為に、何一つ捨てられないメアリージュンの言葉が、彼女に届く訳がない。
「わ、たし……っ、わたし、は……お姉様が、すきで」
「好意から発生した言動は全て受け入れるべき、とでも思ってんのか?」
愛ばかり宣うその口は、毒など知らぬと言いたげだ。自分が愛を乞うた先に誰かの地獄がある事も、既に目の当たりにしたはずなのに。
「好意が嫌悪の動機になる事は、往々にして存在する。お前のその思いは、愛は、彼女にとってただの毒だ」
頬を腫らして、虚ろな目をしたヴィオレットを、ユランは今でも忘れない。きっと生涯、忘れられない。自分を殺したくなったし、原因となった家を殺意のまま燃やしてやりたいとも思った。
「迷惑って言葉、知ってるか? お前が今までしてきた事、全部迷惑で、邪魔で、いらない」
見下ろしていたメアリージュンの前に腰を落として、真っ赤に充血した青い目を見る。そういえばかつて、この目と王子の金色の目を、空と太陽の様だなんて言った奴がいた。
「お前──何で生まれて来たんだろうな?」
太陽と言われた金色は、それはそれは恐ろしく美しく、見るも悍ましい三日月に歪んだ。




