175.奪っていく者
叩き付けたのは、紛れもない悪意だ。傷付けばいいと、明確な意思で投げ付けた凶器だ。溜まった膿を叫び散らして、空いた心に芽生えたのは──猛烈な罪悪感。
真っ青になって、ヴィオレットの言葉で切り刻まれたメアリージュン。ぽろぽろと涙を流す姿は、きっと美しく哀しい。でもヴィオレットにとっては、ただただ怒りと罪悪感を重くするだけの光景だった。
チクリチクリと心の柔い部分を刺してくるのに、お前が泣くなとまた怒鳴り散らしたくなる。相反する感情が何処からともなく湧き上がって吐き気がした。
あぁ──きえたい。
「ヴィオちゃん、ちゃんと息して」
「ッ……、」
「大丈夫、ゆっくりで良いんだよ。そう、上手だね」
子供を寝かし付ける時の様な、とん、とん、とゆっくりとしたリズムで背を叩かれて、チカチカと明滅する様に霞んでいた視界が、当たり前の景色を取り戻していく。
泣くメアリージュンの姿を隠す様に、目の前には制服の襟元。少し視線を上げれば、微笑むユランがこちらを見下ろしていて。片手はヴィオレットの手を取り、もう片方は背に回ったまま。
それだけで、浅くなっていた呼吸までもが凪いでいく。
「疲れちゃったねぇ。今日は真っ直ぐ帰って早く休もっか」
この場の空気も、泣いているメアリージュンも、まるで意に介していない様だった。きっと真っ当な、優しい善人であったなら、今にも崩れ落ちそうなメアリージュンを心配するだろう。それが一般的な優しさだし、多くの人が学ぶ道徳だから。
ならばそれに該当しないユランはとても冷たい人なのだと、ヴィオレットも頭の片隅で理解していた。涙するか弱い天使より、感情のまま怒鳴り散らして尚治まらない衝動を燻らせている悪女を前に、躊躇いの余地もなく天使を切り捨てられるのだから。
そしてそれを、嬉しいと思う自分も、直る事の無い歪みを抱えたまま。
「きっとマリンさんがヴィオちゃん好みのお菓子を沢山用意してくれてるよ。温かい紅茶もあるかなぁ。俺からも色んな葉っぱを贈ったんだけど、やっぱりずっと淹れて来た人には及ばないからねぇ」
まるで、ここには自分とユラン以外誰もいないのではないかと、錯覚しそうになる。いつも通りの、穏やかな声色と視線がヴィオレットだけに向けられていて。
ゆっくりと、背を押されて、足が前へ前へ。導かれるかの様に固まっていた体が動き出す。ユランに支えられ、前を見なくても転ぶ事無く誰にぶつかる事も無く。ただ視線の先に居るユランの笑顔と声にだけが意識の中にあった。
流れる様に、迎えの車のドアが開かれる。本来なら運転手の役であったはずだが、それよりもユランの方が早かった。後部座席に乗り込んだヴィオレットを、扉に手を付いたユランが見下ろす。本当なら、このまま帰宅するはずだったのだけれど。
「ごめんヴィオちゃん、少しだけ待ってて貰えるかな」
「え……?」
「……彼女に、ちょっと話して来る。ヴィオちゃんの事を下手に家で話されたら嫌だから」
「ぁ……」
ついさっきの事なのに、すっかり頭から抜けていた少女の泣き顔を思い出す。なんて薄情なのだろうかと、また心が重くなって、端の方からチリチリと焼かれていく様な感覚がして。行かないで欲しいとも思うし、本当なら自分がすべき事なのだとも思う。
でもそれ以上に、今顔を見たら更なる罵倒が口から劈くのだろうという予感がしていた。泣いた痕跡のあるメアリージュンが家に帰った後、どんな騒ぎが起こるのかも、今のヴィオレットには想像出来ない。
「すぐに戻って来るつもりだけど……疲れているだろうし、先に送ってもらおうか? 俺は後で迎えに来させるから」
「いい。……いい、待ってる。待ってるから……一緒に帰りましょう」
「……うん、ありがとう」
ふてくされた様に視線を逸らした自分に、ユランが微苦笑を浮かべたのが分かった。
駄々っ子みたいな言い方になった自覚はある。聞き分けの無い子が、母に縋り付いて離れない時の言い訳みたいに。納得はしたけど、それでも譲らないと言いたげに。遠ざかる背に抱いた感情は、そんな子供染みた物ではなかったけれど。
(早く──早く、戻ってきて。あの子の所から、早く)
不信や不安なんて不穏な物ではなく。嫉妬とか独占欲とか、そんな可愛らしい物でもなく。きっと昔から、彼女が生まれたその瞬間から始まった、奪われたくないが故の習性だった。




