173.割れた硝子は戻らない
報いが欲しいと思うのは、傲慢な欲求だろうか。
目には目を、歯には歯を──痛みには、傷を。
「良かった……今日、登校なさってるって聞いて、私……」
心底安堵したとでも言いたげな、気の抜けた微笑み。ゆっくりとこちらに歩を進める度、ヴィオレットの体に力が入っている事なんて、この距離では気付きようがないのだろう。
目を瞠ったまま、優しい少女の声を聞いていた。毒でも流し込まれたみたいに、全身が痺れて喉の奥が引き攣る。自分が今、上手く呼吸出来ているのかさえ分からない。
──あの日も、こんなだった気がする。
× × × ×
今にも走り寄って来そうなメアリージュンの前に、ヴィオレットをすっぽりと隠す形で大きな影が躍り出る。驚きで固まったメアリージュンが視線を上げれば、もう何一つ隠す気の無い嫌悪に塗れた金色の瞳とかち合った。
一瞬にしてメアリージュンの体温を奪い尽くしていく、真っ直ぐな憎悪と嫌悪。足が震えて、今すぐに逃げ出したくなる。それでもジッと堪えて、自分を見下すユランへと声を掛けた。
「お姉様と、話をさせて」
「俺、会わせないって言ったよな?」
「お願い、私……っ!」
「黙れ」
取り付く島がないというのは、こういう事なのだろう。ヴィオレットが休む様になってから、何度となく繰り返されたやり取りだ。毎日の様にユランのクラスを訪ねては、姉の様子や居場所を尋ねて、その度に欠片の情報も貰えない。時には泣きながら頭を下げても、ユランは鬱陶し気に同じ返答をするだけで。
自分に微塵の情も持たない相手との交流が、どれ程難しく痛ましいものであるのか、メアリージュンは生まれて初めて経験した。
怖くて、辛くて、悲しくて。何度も心折れそうになりながらも、諦める事は出来なかった。自分が諦めたら、もう二度と、あの家は『家族』に戻れないと、思ったから。大好きな姉を、二度と、姉と呼ぶ事が出来なくなると、思ったから。
「ッ、お姉様お願いしますっ、私の話を聞いて……!」
「…………、ぃ」
ユランの背に隠れているヴィオレットに、無理矢理にでも伸ばそうとした手は、囁く様な声に遮られる。一歩二歩と後退った事で、その姿が影からあふれ出す。漸く対面する事は出来たけれど、その表情は髪に隠れて窺えない。
唯一見えるのは、砕けんばかりに噛み締められた口元だけ。
「──ぅる、さい、うるさい、うるさいうるさい、うるさい‼」
射殺さんとばかりに、ギラギラとした視線がメアリージュンに突き刺さる。眦を吊り上げて、般若の面を想起させる形相で。美しい顔が、噴き出した怒りで染まっている。
ボロボロになった家族。大好きな人達。
諦めなければきっと、大切な物は戻って来る──そんな夢を、見ていた。




