171.火種が落ちる
「え──」
いつもと変わらぬ口調と温度で語るロゼットに、ヴィオレットはきっと彼女の想像をはるかに超えた衝撃を受けていた。
学園中が知るヴィオレットの恋慕が、一縷の望みもなく絶たれたからではない。それについては、当人同士で既に答えが出ている。それほど昔ではない日に、ヴィオレットとクローディア二人で密やかに埋葬した。
問題なのは、自分の感情の方ではなかった。感情ではなく、記憶が違和に耐え切れなかったと言うべきか。
クローディアは、メアリージュンと結ばれる。それだけは揺らがないのだと、信じ切っていたから。むしろ自分が居なくなった事でより楽に、より強固に、繋がるのだと。
──彼らは、運命であったはずだ。
二人は運命で、自分は悪役で、だから選ばれなくて罰されて。運命の二人に割って入ろうとした魔女は、火炙りにされてめでたしめでたし。それがあの世界の、『悪女ヴィオレット』の結末だって、疑っていなかった。
「元々候補生の一人ではあったんです。最有力の噂も立っていましたから唐突という訳でもないのですけれど……近々発表されるかと」
「そ、う……」
ぷつんと、針で突かれた様な気がした。心の奥の、漸く滑らかになった土壌に、針の穴から漏れ出た水滴が、ポトンポトンと落ちて行く。一滴一滴、染み渡る様に。
気付いた時には、今にも崩れてしまいそうなくらいにドロドロになっていた。
胸に広がる、鬱屈とした何か。肩に圧し掛かる重み。纏わりつく様な不快感。吐き気がするのとは、少し違う。でも何かを吐き出したくて仕方がない。湧き上がるくせに涸れ果てる気配の無いそれは、今にも制御を失い暴れ出してしまいそう。
嫉妬ではない。喉から手が出るほどの渇望は知っているけれど、それと似た激しさでありながら全く別の物。欲しくはない、求める気持ちではないけれど。誰かがそれを捨てるのは、許せない。
ロゼットでも、クローディアでも、自分に対してでもない。ただとめどなく溢れるだけの、相手のいない理不尽な苛立ち。
(じゃあ、私のした事は……私の、気持ちは)
あれほど美しくヴィオレットを断罪して見せた愛は、運命ではなかった。
愛されたいと願って、愛されないと悟って、諦めて諦めて傷付いて、漸く愛を得た。この道でなければ得られなかった物がある。気付かなかった物がある。それを思えば、やり直した時間に意味はあるのかも知れないけれど。
痛くて苦しくて辛くて、ボロボロになった記憶が、今も尚残り続ける傷痕が、そんな綺麗事を許さない。
運命の恋を邪魔をしない為に、耐えて、諦めたのに。
それなのに、この結末は何なのか。彼らが、結ばれないというのなら。私の時間は、想いは、痛みは、なんだったのか。 全てが巻き戻った世界では、運命さえも無かった事になったのか。『あの時間』で受けた傷は、痛みは、誰の罪にもならないのか。
──だって、覚えていないのだから。
「ヴィオ様?」
「ッ……ごめんなさい、驚いてしまって」
歯を削る感覚と顎の痛みで、自分の表情が強張っていた事に気が付いた。慌てて笑顔を作ったけれど、ロゼットに通じたのかは不明だ。誤魔化す事よりも、問われない事の方が重要だったから、『作り笑顔をした』事実さえあればそれで良かった。実際に、ロゼットは少しの不安と疑問を感じながらも、言葉にする事はなかったから。
「あぁ……そろそろ戻らないといけないわね」
「そう、ですね……もうそんな時間」
「ロゼットと話していると、時間があっという間に過ぎてしまうわ」
「それは、私もです」
遠くで、鐘の鳴る音がする。予鈴が鳴ったという事は、後数分で休み時間が終わるという事だ。ここは校舎の端に位置しているから、今から戻らないと授業に遅れてしまう。
階段でユランと別れ、次に廊下で、何か言いたげなロゼットと別れ、一人になったヴィオレットの顔からストンと笑顔が消え失せる。
鐘が鳴ってくれて良かった。あのまま居たら、何の責も無い二人にドロドロとした感情を全てぶちまけていただろう。あんなにも満ち足りていたのに、今は視界に入る全てが目障りで、空気が耳元で揺れるのさえも耳に障る。腹の底が重くて、喉元までせり上がって来るのは吐き気ではない。
(気持ち、悪い)
御し難く、膨れ上がり、溜まり続けるこれを──『怒り』と、呼ぶのだろう。




