159.語るは夢
心のどこかで、欠けた所が埋まる音がした。それは満ちたというよりも、ただ、ずっと足りなかった答えが知れたという類の充実。解答は出ていたけれど、全てを語るには抜けていて、伝わるけれど説明が少ない。そういった種類の気付き。
恐怖心──ヴィオレットを縛っていた、最後の鎖。
当然と言えば当然。子にとって親は絶大で、それがどれだけ屑であっても、繋がりは時に鬱陶しいほど絡まってしまう。弱い者を支配するのは、強くなくとも容易い。それが親と子であれば、尚更。
恐怖に勝つ方法は逃げるのが一番確実だ。そして同時に、一番難しい。恐怖の“対象”からは逃げれても、恐怖心を抱いた自分からは、切り離して終わりにできないから。
──そうか、もう、無いのか。
涙が出る感動もなく、ただ事実を飲み込んだだけ。それだけが、どうしようもなく軽くて、自由で、声も出せないくらいにホッとした。
× × × ×
「おはよう、ちゃんと眠れた?」
「ユラン、おはよう」
食後のティータイムを楽しんでいた時、紙袋を手に下げたユランが、マリンの出迎えで部屋を訪れた。いつもの笑顔、いつもの声、まるで昨日の出来事は全部夢だったのではと錯覚させる自然さで。当然ただの比喩で、実際に夢だったと思う訳はないのだけれど。
手当された頬に、一瞬だけ安心と苛立ちの混じった複雑な表情をしたが、何も言わずにヴィオレットの隣に腰を下ろした。
「枕が合わない様なら部屋を変えようかと思ってたけど、その様子だと大丈夫だったみたいだね」
「えぇ、とっても。心地よすぎて、寝坊しちゃったくらい」
「ふふ、なら良かった。いるものがあったら手配するから、言ってね」
「ありがとう。でも大丈夫、もう十二分に助かってるわ」
「ヴィオちゃんの充分が本当だった事ってほとんど無いからねぇ」
「その時は私が見極めてご報告致します」
「あ、なら安心だ」
もう一人分のティーセットを持って現れたマリンが、自然な流れで会話に参加する。二人はヴィオレットを介してしか会った事がないはずだが、何故か旧知の仲の様な糸が見えて、不思議な光景だ。とはいえヴィオレットも、大切な二人の仲が良好であるのは喜ばしいので、違和感を訴える事もなかったけれど。
「あ、これ二人にって預かってきたよ」
マリンが現れたからなのか、傍らに置いていた紙袋をテーブルの上へ乗せる。ユランが持ってた時は思わなかったが、それなりに大きな袋だ。あまりにも軽々と運ぶものだから、それほど量は入っていないのかと思っていたのだけれど。
カップに口を付け、完全に待つ体勢に入ったユランに甘えて、マリンと二人紙袋を覗き込む。綺麗に整頓されて詰められた中身は、互いが傷を付けない様に梱包までされていて、一見しただけでは中身が分からない様になっていた。一つ一つ外に出して見たが、最初の予想通りあまり重い物は入っていなかったらしい。小さい細々とした物と、大きいけれど重量の少ない物。全部出し終えた頃にはテーブルが半分真っ白になっていた。
「……これ」
一つ一つ梱包を解いていく内に、これが誰からの贈り物か理解する。
大きいのは、マリンとヴィオレットの服だった。ヴィオレットの大きなクローゼットの中で数少ないお気に入りの物が二着と、マリンの替えのエプロンと私服が数点。小さな包みはどれも二人が大切にしていたアクセサリーや文具、食器。あの家に残して惜しいと思っていた物の多くが揃っていた。
マリンが選んだ懐中時計。貰ったバレッタ。ホットミルクを飲む時のマグカップ。ヴィオレットが贈ったハンドクリーム。母に隠れて読んでいたお姫様が出て来る絵本。主の様子を書き込んだスケジュール帳。バレるのを恐れて、隠していた大切な想い。届けてもらえずに家の人間に気付かれていたら、きっと捨てられていた宝物達。
それだけで分かる。この宝の意味を理解して、届けてくれる人の影が。
「あの、これ……ッ!」
「シスイさんって人と、他何人かから。必ず二人に届けてくれって」
驚きと安心で固まってしまった二人だったが、先に戻ってきたのはマリンだったらしい。珍しくヴィオレット以外に表情を歪めて、真ん丸くした目が珈琲の香りを楽しむユランを映している。さらりとした口調ではあるけれど、突き放す冷たさを感じないのはヴィオレットの傍だからだろうか。若しくは、マリンやシスイに対する何かしらの情かもしれない。ヴィオレットに優しい者は、ユランにとっても優しくすべき対象なのだから。
「他にも持って来て欲しい物があったら俺が伝達役するから。家の事は任せてくれていいそうだよ」
いつも通り、何の憂いも抱かせない笑顔は、ヴィオレットを安心させる為。自分を下げては人の心配をして、真っ先に己の身を刻もうとする性格だ。自分の為に何かしされると、反射的にそれ以上の犠牲を己に科そうとする。感謝と罪悪の境目が曖昧なのは、今まで省みられる事が極端な程に少なかったから。与えられる物にまず脅えるのは、それだけ虐げられてきたから。不信と警戒よりも先に申し訳なさで苦しくなるのは、自分の価値を底に見ているから。全部全部、あの家で作られたヴィオレットの表面。そうならなければ生きていけなかった少女の、苦肉の策で作られた傀儡。
──ここにはもう、あの家ではない。
「ヴィオちゃん、話をしよっか」
新しい服を沢山買おう。他の誰でもない、君が気に入る服を沢山。大丈夫、君に似合わない物なんてない。家はまだ先になるから、先に部屋を作ろう。君がゆっくり休めて、穏やかな時間を過ごせる部屋が良い。広さよりも日当たりと、窓からの景色が重要かな。家具はどんなが好きだろうか。君の好きな物は全部知っているつもりだったけど、家具の好みは聞いた事がなかったから。写真を沢山飾って、どこに居ても、思い出を振り返れる様に。幸せを色んな所に散りばめた、そんな場所を、日々を。
そんな未来の、これから先の話を、しよう。




