158.アングレカム
気が付くと朝になっていた。昨日マリンに会って、そこからの記憶はぼんやりとしか残っていない。彼女に会って安心したのか、夢と現実の境が曖昧だ。正直起きた後もしばらくはぼんやりしたままだった。寝つきは悪いし夢見も良くないが、起きるのだけは素早かったはずなのだけれど。昨日からずっと、ふわふわと宙に浮いた感覚がしている。
「ヴィオレット様、まだお休みになられてはいかがですか?」
「大丈夫よ、ありがとう」
「そう言ってさっきからスプーンが空を切っておられますが」
「へ?」
そういわれて視線を落とすと、一滴も減っていないスープがあって。そういえばさっきから口の中は一度も満たされていなかった気がする、美味しいとも、温かいとも。つまり自分はずっと空のスプーンに口を付けていたという事か。
何とも間抜けな姿を想像して、頬が熱くなった。誤魔化す様に、今度はちゃんと黄金色のスープに金色のスプーンを浸す。ほんのり湯気が立っているが、マリンが用意したそれが熱すぎる事はないだろう。ジッと観察するマリンの視線を無視して口に含んだコンソメは、想像度通り、舌を攻撃する熱はない。いつも飲んでいるそれよりも少し濃くて、鮮やかで、間違いなく美味しいけれど。ヴィオレットが好むのは、具沢山で口当たりの柔らかな、シスイが作る野菜スープ。
あの家を飛び出して、マリンもいて、振り返る必要なんて何もないと思っていたけれど。彼の作る物が食べられないのは、ちょっと、いや凄く、惜しいかもしれない。
「……ねぇ、マリン」
「どうかなさいましたか?」
「家は、どうなっているのかしら」
「…………」
「私の専属はマリンだけだったし、他の子達とは出来るだけ関わりを減らしていたから大丈夫だとは思うけど……」
あの家には今、二種類の使用人がいる。前妻、つまりヴィオレットの実母であるベルローズが生きていた頃からいる者と、別邸で三人の世話をしていた者。後者は勿論、前者にだってヴィオレットへの仕打ちを黙認していた者は多いが、案じていた者だって少なくはない。その筆頭がマリンであり、料理長のシスイだった。
ベルローズが生きていた頃から、守ろうとすればするほどヴィオレットは傷付き、多くのクビが切られた。残った者達は、せめてこの子の傍に居られる様にと、歯を食い縛って耐えて耐えて、耐えて。母が死に、やっと荷が下りたかと思えば、今度は当主の帰還で、更に二人分の荷が増えてしまった。
当然、腹立たしさはあった。雇い主であっても、自分の給金の出先であっても、心から軽蔑したし煮え滾る様な怒りだった。ただそれでも、耐えねばならない事を知っていた。 誰よりも憤っているはずのマリンですら、ヴィオレットの傍に居る為には、彼女の盾となり敵へと噛み付く事は許されないのだから。
何より庇った後、使用人である自分達はクビで済んだとして、その後は?
誰よりも傷付いているヴィオレットはどうなる?
被害者であるはずなのに、叱責され罵倒され、壊れるまでサンドバックにされてしまうだろう。そしていつか、殺される。
そんな想像をする度に、誰も身動きが取れなくなった。そんな気遣いを知ってか知らずか、どちらにしても自分のせいで職を失う者達を出さぬ様に、ヴィオレットも多く人から距離を取って。結果、専属として残ったマリン以外とは、会話すら最低限、それも誰にも見られない様に注意を払って。
それを幸いと言うべきかは分からないが、こうして計画性もなく家を飛び出したヴィオレットの尻拭いをさせられる人は、少なくとも父の視界にはいないだろう。ヴィオレットと親しかったとか、傍で仕えていたからとか、そういった理不尽で詰られる事はないはずだ。
「マリンがいたら、戻るつもりだったのだけど」
「私が残っていたら、火でも付けても屋敷ごと彼らを灰にしていたでしょう。ヴィオレット様が戻れなくなる様に」
「え……っ」
物騒な発言をするマリンを仰ぎ見て、その表情にもっと驚いた。
夕焼けの色をした瞳が細められて、口角は綺麗な曲線を描いている。水が流れる様に、短く切られた髪が首を傾けたのと同じ方向に揺れた。冷ややかな美しさを連想されるその顔は、優しく柔らかく、誰もが慈愛を感じさせる笑顔で彩られて。
聖母というのは、こういう顔で笑うのだろうか。
「貴方の戻る場所はもうどこにもありません。もうどこにも、戻らなくて良いんです。これからヴィオレット様が向かうのは、貴方が帰りたいと思える場所。貴方の帰る所ですよ」
膝を付いたマリンが、ヴィオレットの左手を取った。両手で包み込んで、何度もその甲を撫でて。
一つ一つの事実を刻む様に、沁み込ませる様に。強く優しく、告げていく。
「私もいます。ずっとずっと、お傍にいます。共にいきましょう、どこへでも」
この日が来る事を、ずっとずっと、待っていた。
やっとこの言葉を、言ってあげられる。
「恐れるものは、何もありません」




