157.ブルースターは咲いた
扉を開けた瞬間、視界に綺麗な水色が靡いて、少し低いけど、確かに人のそれだと分かる温度に包まれていた。頭を抱え込む様に腕が回って、心臓が耳のすぐそばでドクンドクンと音を立てていた。走った後みたいな、逸る鼓動が、どれだけ心配を掛けたのか伝えて来る。
「良かった、ほんとうに……! よか、た……ッ」
涙で滲んだ声は、絞るほどに水分を増していく。髪に絡んだ指が、掌が、ヴィオレットの輪郭をなぞっていく。まるで、ここにいる事を確かめる様に。何度も何度も、声が言葉の形を失っても。その手は、腕は、絶対に離さないと力が込められていて。苦しいくらいに抱き締められて、でもこの息苦しさは、息の根を止めようとするものではなくて。
ただどこまでも優しく、強く痛く、ヴィオレットを案じ望む抱擁だった。
「ごめん、な、さい……ご、めんな、さ……、!」
「大丈夫、大丈夫です。もう、大丈夫ですから」
「ごめんなさい、ごめ、なさい……ッ」
「大丈夫、もう、大丈夫」
体温が、痛みを思い出させる。頬も唇も足も手も、色んな所が痛くて、でもどんな傷よりも、心配を掛けた事が辛くて。マリンの背に回した腕で、手で、縋りながら泣いて謝るしか出来なかった。顔は腫れと固まった血と、涙でぐちゃぐちゃのボロボロだ。
言いたい事は、色々あったはずだった。何故マリンがここに居るのか、家は大丈夫なのか、もしかして、自分のせいで追い出されてしまったのか。心の根っこの方を、握られた様な感覚がする。想像しただけで、お腹の奥が黒くて暗くて重い何かで一杯になりそうだ。話したいと思うのに、言葉が上手く出て来なくて。頭が働かなくて。
ごめんなさいを繰り返すしか出来ない自分が不甲斐なくて、涙が止まらなくて。その度に、大丈夫だと宥めてくれる手が、嬉しくて。
体力と水分が限界を迎えるまで、二人して、子供の様に泣きじゃくっていた。
× × × ×
話したい事は沢山あった。それでもまずは食事をして、入浴をして、手当てをして。そうやって後に回している間に、気が付くとヴィオレットは船を漕ぎ、あっという間に眠りに落ちていた。疲れていたのは勿論の事、ここが家ではない事が一番の理由だろう。最近は眠りに恵まれない日々を過ごしていた様だから、敵が同じ屋根の下にいない事で気が抜けたのかもしれない。いくらグレードが高く居心地のいい宿でも、初めて泊まる場所より、自宅の方が本来は居心地よくいられるはずなのに。
枕に辿り着くことなく、うつ伏せで倒れ込んだ様に眠る姿は、息苦しそうな寝相に反して何とも安らかに見える。ベッドスプレッドの上にそのまま寝てしまった主の為に予備の布団を出して、その肩までをすっぽり覆うと、羽毛の下でもぞもぞと丸くなるのが分かった。
寝返りをうったその頬には、大きな絆創膏。緩く握られた指先も、今は見えない足も、ガーゼや包帯で人工的な白に染まっている。
(……やっぱり、殴って来れば良かった)
ヴィオレットを追う事しか考えていなかったけれど、どうせなら何発か拳をお見舞いしてから出てこれば良かった。あの時はユランがいる事なんて想像もしていなかったから仕方がないのだけれど、今になって思い返せば後悔にもならない悔いがいくつも浮かんで。そのどれもが消化出来ず、ただただ元凶への憎しみだけが募っていく。
──屋敷を出て、シスイに言われた通り車に乗ったマリンを待っていたのは、ユランの家の運転手だった。
疑問と混乱で目を回しているマリンをこのホテルまで連れて来た運転手は、その後すぐに車へ戻って行ったので詳しい事は今もよく分かっていない。ただあの時のマリンには、ユランの伝言以外に希望がなかった。
ここでヴィオレットを待っていて欲しい──その、伝言だけを頼りに、ヴィオレットが戻った時に過ごしやすい様にと室内を動き回って。そうして気を紛らわせていないと、狂ってしまいそうだったから。不安に食い潰されて、自ら希望を手放してしまいかねなかったから。
一分が、一秒が、まるで永遠みたいだった。どうか彼女が戻って来ます様にと願って、何の価値もない神にまで祈って。
どうか、どうか、ヴィオレットが死んでいません様にと、乞うた。
結果として、ユランはヴィオレットを連れて戻してくれた。おかげて自分はまた、ヴィオレットの温もりに触れる事が出来た。
「おかえりなさいませ……ヴィオレット様」
広々としたベッドに腰かけて、薄灯りの中で煌めく髪に指を通す。ヴィオレットの柔らかな心を表す、柔らかな髪。シルクを撫でる様な質感は、いつ触れても美しい訳ではない。水分を失って、枯れてそうになる日もあった。痛んで千切れて、短くなってしまう事もあった。誰よりも美しい人だけど、その美しさが陰らない日の方が少なかった。
「もう……大丈夫ですよ」
きっともう、大丈夫。何が、何を、どうやって。何一つ分からないけれど、何の保証もないけれど、大丈夫だと思えた。ヴィオレットが戻ってきた、ならばもう、マリンに恐れるものはない。ユランがどういった方法を取るつもりなのかは分からないが、それがヴィオレットを救う方向であるのは明白。なら、自分は、従うだけだ。マリンが欲しいのはヴィオレットを守る方法なのだから。 守る力を持つユランの駒にでも何でも、喜んでなる覚悟はとうの昔に出来ている。
(シスイさんは……大丈夫かな)
唯一の気がかりは、自分達の尻拭いを任せてしまった彼の事。自分よりも圧倒的に年齢も、経験も大人なシスイの事だ、心配する必要なんてないのだろうけど。ヴィオレットがいなくなったあの家は、きっと心配とは真逆の意味で大騒動になっているだろうから。それを正しく抑え込める人間が、あの家には圧倒的に少ない。当主に逆らって平気な顔をしていられる者は、恐らくシスイしかいないだろう。
立場以外は、精神的にも物理的にも圧倒的にシスイの方が優れてはいるけれど、勝敗は立場で決するのが雇用という形態で。何よりあの人は、割と有言実行な人だから。
(あの男の事、殴ってないと良いけど)
正直な気持ちとしては、是非とも殴ってくれと思う。マリンやヴィオレットの様な女性の力ではなく、シスイの様に屈強な男の拳で顔面が変形する程ボロボロにされてしまえばいいのにと。ただそれをして、シスイが罰せられてしまうのは本意ではない。
「明日……」
全ては、明日。何かが決まり、何かが終わり、何かが始まるのだろう。そしてその全てが、ヴィオレットの未来を決めるのだと理解して、願う。
穏やかな寝息を立てるヴィオレットが、目を覚ましたら。
その瞳に映るのは、幸せだけであれば良いのにと。




