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153.おうちにかえろ


 色んな所を駆け回った。二人で行った場所から、話に聞いただけの所を。少しずつ、過去の足跡を辿る様に。

 あそこに行ったのは、中等部の時だった。あっちは初等部を卒業する時。あの店は、いつも二人で外から見ているだけだった。子供二人では入れてもらえなくて、しゅんとしていたのを覚えている。図書館や植物園にも、彼女の親の目を盗んで足を運んだ。短い時間を繰り返して、沢山の思い出を散りばめて。


 ヴァーハンの屋敷の裏口から、細い裏通りを抜けた先の森の奥の、更に奥。


 腐りかけた巣箱や変な方向に曲がって生えた木を、右に一回左に二回その後右にまた一回曲がれば、そこだけがぽっかりと空間を開けた場所。丸いピクニックシートでも敷いてあるみたいに、花と雑草の間みたいな緑が顔を出している。

 ぬめり気のある苔や、虫に食い荒らされた幹よりは綺麗だけれど、土や落ち葉で充分に汚い草の絨毯の真ん中。役目を終えた人形の様に、立てた膝に顔を埋めて蹲る、小さくて頼りない影があった。


「懐かしいね、ここ」


 ゆっくりと近付いても、声をかけても、反応はない。驚いた様子はないけれど、ユランの登場を想定していたはずはないだろう。ユランだって、まさかこんな形でこの場所に来る事になるとはおもっていなかったのだから。あの頃は大きく感じていた木も、広く思えていた空間も、随分と小さくなった。ユランが大きくなったからそう見えるだけだとしても、成長した自分達には狭くて近い。

 男女が手を繋いでも怒られる事の無かったあの頃。この場所は、二人にとっての『家』だった。

 ただの花畑、それも時期によってはただの土と雑草になってしまう様な場所。整備なんてされていないし、居心地よく整えた事もない。ただ二人で来て、枝で地面に絵を描くくらいしか出来ない様な所だけど。


 ──家は楽しくて、安心して、大切な人がいる場所の事。だったら、私達の家はここだね。


 秘密基地とか遊び場とか、そういうのじゃない。ここは来る場所じゃない。痛くて辛くて、逃げたくなる屋敷なんて家じゃない。あそこに住んでは居ても、帰りたいと思うのはここだから。だからここを家にしよう、帰って来れる場所にしよう。

 今思えば、あれは彼女にとって精一杯の逃避だったのだろう。あそこは家じゃない、本当の家はここ。自分の居場所は森の奥にあって、本当の帰る家は、ヴァーハンの屋敷なんかじゃない。逃げられる『家』は他にあるんだと、必死に言い聞かせて立っていた。幼い少女が死に物狂いで身に着けた、死なない為の術。


「最後に来たのはいつだったかなぁ。ここは暗くなるのが早いから、学校が始まったら来れる機会も減っちゃったし」


 ヴィオレットの傍に膝を付けば、布越しに冷たく湿った感覚が伝わって来た。水気を含んだ土に沈み込んだ部分から、ゆっくりと浸食されていく。石が少ないのはありがたいが、柔らかい地面はその内に泥と変化するだろう水分量で。接地面から体温を吸い取られていく気がした。


「ヴィオちゃん、寒くない? 薄手ので来ちゃったから、あんまり意味ないかな」


「…………」


 着ていたカーディガンをヴィオレットの肩に掛ける。自分が着ている時も大した防寒にはなっていなかったが、無いよりは幾分かマシだろう。指先が触れた髪が冷たくなっていて、どれだけの時間ここにいたのか、想像するだけで痛い。


 そこで初めて、ヴィオレットが顔を上げた。前髪がすだれの様に顔に掛かって、焦点の合っていない目がゆらゆらと揺れている。がらんとした瞳には光がなくて、硝子がはめ込まれているだけみたいだ。

 何よりも目に付いたのは、真っ赤になった頬だった。頬骨から顎の辺りまで、白い頬が痛々しい色に染まっている。まだそれほど腫れていない様だが、時間が経つにつれて痛みも腫れも増して来るだろう。口角には血が固まって、一見しただけでは頬よりも唇の方が酷く見える。出血は何とか止まっているみたいだが、この様子では口の中にも傷が出来ているだろう。

 誰が見ても、強い力で殴られたのは明白だった。


「ヴィオ、ちゃ」


「ユラン」


 震える口が、上手く言葉を紡げなくて。バクバクと耳の奥で鳴り響くのが自分の鼓動であると、気付いたのはヴィオレットが自分の名を呼んでからだ。触れたら痛い事なんて分かっているのに手を伸ばしてしまったのは、文字通り手当てを望んだからかもしれない。触れて労わりたい、そんな気持ちだけで、その痛みを取り除く事は出来ないのに。


「え……っ」


 触れる直前でさ迷っていたユランの手に、ヴィオレットの手が重なって、そのまま傷口に押し付けられた。反射的に引こうとした腕を、思っていたよりもずっと強い力で引き留められる。触れた頬は色から想像した通り、冷たい手とは裏腹な温度で脈打っている。


「ユラン」


 鋭さなんてない、覇気もない、どこまでも平坦で威力の無い声が自分の名を呼ぶ。それだけのことが、心臓に刃を滑らせた様に痛い。

 真っ暗な硝子の瞳から零れ落ちた雫が手の甲を伝い、一つ、二つ、三つ──滂沱の涙となって流れていく。嗚咽すら漏らすことなく、ただ涙だけが留まる事なく溢れ続ける。壊れた人形の様に、何度も何度もユランの名を呼んで、泣いて。


 不自然な呼吸に声が枯れていく中、曇った音が耳に届く。

 一番小さくて、一番掠れていて、でも一番、鮮明に。


「──生きたくない」

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