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152.簡単に言えて、難しい行いの話


 大切な人の危機を遠くでも感じられたら、どんなに良いだろうか。虫の知らせとか、嫌な予感とか、不確かでも何でも彼女の事を感じ取れたらどれだけ安心出来るだろう。いっそ感覚が共有されていたなら、どれだけ。

 二人でいれば喜びは二倍、苦しみは半分になったとしても、傍に居なければ適応されないのに。どれだけ離れていても、繋がる何かがあれば、良かったのに。


 ──ユランが今日、ヴィオレットの所に行こうと思ったのは、彼女の危機に反応出来たからではなかった。


 家に帰って、着替えて、考える。いつも通りのルーティン。

 メアリージュンに投げ付けた言葉の数々を思い返してみたが、言い過ぎた所なんてなかった。感情に呑まれてしまった感じは否めないけれど、それでもまだ、全然足りない。噂を聞いた時点で向こうから距離を取ってくれたらもっと楽ではあったけれど、どうせいつかは突き付ける気でいた現実だ。

 ユランの言葉を、メアリージュンはどう感じてどう受け止めたのか。それだけが心配ではあったけれど、去り際のあの表情では、泣いて蹲るのが堰の山。助けを乞えないくらいには不信を植え付けたし、怒りを覚えられる体力も残ってはいないだろう。そして最も厄介な存在が、今あの家にはいない。父親の不在を知っていたから、ユランの口も余計にブレーキが利かなかったのかもしれない。


 ──何も思わなかった。感じなかった。部屋を訪ねたメイドの言葉を聞くまで、何も。


「先日、マリン様という方からお電話がありました」


 誰の事なのか、すぐに分かった。それほど珍しい名前ではないから、多分学園の知人にも同名の人間はいるだろう。だとしても、ユランの脳内に浮かんだのはたった一人で。ほとんど話した事のない、でもしっかりと記憶に残っている水色の髪。真っ赤な目。ヴィオレットの斜め後ろに控えて、こちらを観察し警戒していた女性。その心構えだけで、信頼した相手。共に敗れて地獄を見たあの日まで、彼女がユランを頼った事はない。


 それだけで、色んな想像が頭を駆け巡った。それはもう、最低な可能性が、幾つも幾つも、留まる事なく。

 いつから? 今日? 昨日? もっと前? 今日覚えた違和感は、何か関係してる?


 色んな事が浮かんでは退けてまた浮かんで、焦って混乱して。どうしてもっと早くに伝えなかったのかとか、知っていたらメアリージュンとの一方的な約束なんて反故にしていたのにとか、そういう怒りは表に出るより早く捨てた。少なくとも、今すべき事ではない。


「車を出せ。今すぐ、ヴァーハンの家に向かう」


 手近にあった上着を掴んで、疑問も言わせる間も与えずに、ただ一言の命令だけで家を出た。



× × × ×



 沈黙の車内で、わずかな振動に身を揺られながら、急く気持ちを落ち着けようと目を閉じた。嫌な想像ばかりでは視野が狭まる、先入観は目が曇る。霧の中で見た熊が実は人間だったとしても、斧を振るった後では取り返しがつかない。何かあるという前提の下では、認識が狂う。

 ユランは今、確認に向かっているだけ。何もなければそれでいい、下手に蜂の巣を突くくらいなら、明日を大人しく待つべきだ。全部、取り越し苦労でいい。杞憂に終わってくれればいい。


 ヴィオレットが傷付くくらいなら、全部全部、徒労で構わなかったのに。


「ッ、止まれ‼」


 ふと見た、窓の外。煉瓦の歩道を街灯が照らす、夜の道。煌めく灰色が、靡くのが見えた。一瞬、確かにユランの視界に移り込んだ影。

 すぐに車を止めて外に出た。シャツの上に薄いカーディガンを羽織っただけでは防ぎ切れない冷気が肌を刺す。耳や指先から、どんどんと末端から体温が奪われていく。それでも、自分は絶対に彼女を見間違ったりしないから。


「ヴィオちゃん……!」


 既に影も形もなくなった人の名を呼んだって、届くはずがない。どうしてがぐるぐる回る脳では、そんな事すら理解出来なかった。ただ混乱して、どうすれば良いのか分からなくて。優先順位が狂った頭は、彼女が何故こんな所に居たのか、その原因を探していた。冷静であったなら、追う以外の選択肢なんてないと分かったはずなのに。


「坊ちゃん……ッ?」


「ッ……!」


 人気の少ない道で、突然聞こえた声に振り返る。坊ちゃんという名称が自分の事である自覚はなかったけれど、結果として、相手は真っ直ぐにユランを見ていた。

 長身のユランと並んでも高さにそれほど違いはなく、でも何故か彼の方がずっと大きく見えた。厚い胸板や太い二の腕、筋張った手、どれをとっても、男性的な強さが連想される。顔立ちのせいかひ弱な印象を持たれるユランとは違った、屈強な男の人。肩で息をしながら、首に伝った汗を拭う姿はアスリートの様なのに、身に纏っているのは真っ白なコックコートで。

 少し崩れた、茶髪のオールバック。翡翠色の目。名前は分からないけれど、顔だけは知っていた。


「あ、んた……あの家の」


「貴方の思っている通りですが、自己紹介はまた改めてにしましょう。お互いに時間がない」


 目が回りそうな混乱の中、必死に思い出そうとするユランを、シスイは淡々とした口調で切り捨てる。睨み付けるでもなく、ただジッと、機嫌を感じさせない表情で。見られているだけなのに、気圧されてしまう気がした。分かりやすい迫力とか、威圧感とか、確かに持ち合わせた外見をしているけれど、ユランが感じているのはそういった容姿から抱くものではなくて。まるで、こちらの焦りも困惑も、全部見透かされている気になる様な。

 大人と、対面していると、思い知る様な。


「旦那様が、予定よりも早く帰宅されました」


「ッ‼」


「貴方なら、それだけで理解出来ますね」


 ヒュッ、と呼吸を失敗した音がした。この冷たい空気の中で、背中が湿るのを感じた。冷たくて、嫌な汗が、背中をゆっくりと伝っていく。血の気どころか、空気だって一気に引いていく様だった。取り込んだはずの酸素が抜けていく。どんどん浅くなる呼吸が、どんどん、心を絞めていく。


 俺は、また間違えたのか。


「────」


 パァン、と、弾ける音がした。風船が割れる時とかの破裂音に似た、鋭い音。一瞬にして色んな事が吹っ飛んでいく、衝撃音。


「しっかりしろ。目を瞑るにはまだ早い」


 目の前には合掌した手があって、大きな両手を叩いて音を出したらしい。硬く分厚い手の平は、真っ赤になっていた。

 不安定に揺れながら、下り坂を堕ちようとした思考が、強制的に停止される。きっとこのまま行っていたら、どこかで崩れて壊れてバラバラになっていただろう。他の誰でもない、自分自身の手で深淵へと引きずり込まれていた。

 そうなっては最後、まるで、あの教会の再放送だ。神の前で泣いて蹲ったって、彼女は救われないと知っているくせに。

 もう、絶対に諦めないと、決めたくせに。


「……すいません、俺行きます」


「場所は?」


「幾つか……彼女が行ける所は、知ってます」


「なら、そっちは任せます。俺はもう一人心配なのがいるので」


 それが誰なのかは、ユランにもすぐに想像が付いた。きっとユランよりもヴィオレットの痛みを間近で見て、知って、必死に盾になろうとしたマリンの事を。ヴィオレットが屋敷を飛び出したなら、彼女が追わないはずはない。例え撒かれようとも、夜通し見つかるまで探し回るだろう。それこそ、自分の体がどうなろうとも。


「家の車を使ってください。俺も、マリンさんには行って欲しい所があります」


 シスイと運転手に簡単な説明、命令だけして、時間が惜しいと乱暴に扉を閉めて発車させた。遠ざかっていく車体を見送る事もせず、反対の方向へ走り出す。

 最低限の説明はした、マリンの安全を確保した後の手配も指示した。後は、自分がヴィオレットを見つけるだけ。

 行先に心辺りはあっても、そこにいる保証なんてない。ユランの知らない場所かもしれない、目的地なく惑っているかもしれない。自信なんて、どこにもないのに。どうしてか、見つからないとだけは思わなかった。必ず見つける。それがどこであっても、どんな手段を使っても。地を這い泥に塗れ、どれほど醜穢な姿になろうと、知った事ではない。


 底を知った、底辺の、地獄を見た。見上げた光の眩しさも、忌々しさも、どうしてそれが彼女には与えられないのかと、煮え滾る憎悪の中で歯を軋ませた事も。幸せにするという誓いだって。どれも欠ける事無くこの胸にある。


 全部、全部、あの日決めた。

 怒りも、憎しみも、幸せも。もう何一つ、諦めたりしないって。


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